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8.息苦しいのは

「は?」 「過去のこととか、全部、無かったことにしていただけませんか」 「……」  胃の辺りがつきんと痛んで、言葉に詰まった。全て忘れる、それは秀自身も望んでいたことだ。雪彦を支配し、独善的な振る舞いで翻弄(ほんろう)した過去のことを後悔していて、申し訳なさが募るばかりだったからだ。その反面、忘れられない、忘れたくない、幸福で何物にも代えがたい時代の思い出もたくさんある。思い出すたびに胸に温かいものが(にじ)んで(うず)いたりもする。  雪彦は、そうではないのだ。本当に嫌な記憶ばかりが蘇るのだろう。  たぶん、期待していた。雪彦は自分から進んで秀の面倒を見てくれていたのだと。純粋に秀を心配してくれていたのだと。そんなありもしない幻想に縋り付いて生きて来たのを、見事に打ち砕かれた気がした。  愕然としながらも、平静を装って何でもないことのように頷く。 「分かった」 「……ありがとうございます」  雪彦の口から安堵の息が漏れたのを見て、心臓の痛みが増す。  雪彦の選択は正しい。仕事に私情を持ち込むのは褒められたことでは無い。なかったことにして接する方が、互いにとって都合がいいのだから。 「……日課は今ので終わり。デスク戻るぞ、書類の話とかするから。お前に書いてもらうやつもあるし」 「はい。お願いします」  表に戻ると、雪彦のデスクは秀の隣になったと連絡を受けた。数日前まで山積みだった事務用品や書類がいつの間にか片付けられている。新人バイトが誰であれ秀に面倒を見させるつもりだったようだ。  一瞬のうちに精神的に疲弊しきった秀は、椅子にどっかり腰を下ろすとのけぞるように脱力した。  その背後で、棒立ちの雪彦がじいっと散らかった秀のデスクを凝視している。 「あ? お前も座ったら?」 「ああ、いえ」  面食らったような顔の雪彦を訝しみながら、ああ、こいつは綺麗好きだったなと思い至る。 「ちゃんと整理しろってか? これはこれで使い勝手が……」 「いえ、写真————とか、まだ、お好きだったんですね」 「……だったらなんだよ」  続けようとした言い訳が引っ込む。雪彦が秀の背後から覆いかぶさるようにして手に取ったフォトフレームは、趣味で撮りためた作品のうちの一枚だった。さっき、過去を無かったことにしろとのたまったばかりのくせに、まさか過去を掘り返すような話題を出すとは。 「いえ、何というわけでもなく」  卓上のコルクボードに貼り付けられた風景写真を覗き込んだ雪彦が、わずかに微笑みを浮かべる。久しぶりに見た表情に驚きながら、なんだか心がざわついて、言うつもりのなかった言葉が口をついて出る。 「ずっと続けてる。ここに来る前は写真館でカメラマンのアシスタントやってたし。今はまあ、ここのパンフに使うやつ担当したり、本土の式場でブライダル撮らせてもらったり……細々と、だけど」 「そうでしたか」  写真を舐めるように見ていた雪彦が、ふいに秀を見た。見たことのないような優しい表情をしていた。癖の少ない艶やかな黒髪と、怜悧(れいり)な瞳。見惚れてしまっているようで何だか面映(おもは)ゆくなって、慌てて目を逸らした。 「……良かった。秀さんは秀さんのままで」 「……?」  どういう意味かと尋ねる前に、雪彦は身を引いて自分の椅子に腰を落ち着けてしまう。そこに居るのは、仏頂面で掴みどころのないいつもの彼だった。 「すみません、仕事に関係のない話をさせてしまいました。続きをお願いします」 「……ああ」  ——俺だって、お前が変わっていなくて、安心した。  絶対に言ってやるつもりのない言葉を胸中で呟いて、一通りの説明を終える。簡単な申請書や経理に使うものがほとんどで、これは滞りなく教えることが出来た。 「だいたい終わったし、いったん休憩な。お前も麦茶でいい?」 「はい。ありがとうございます」 「ああ」  秀は共用の冷蔵庫へ向かうと、作り置きの麦茶のボトルを取り出した。青い涼やかなグラスになみなみと注ぎながら、小さくため息を吐いた。

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