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9.過保護なお前と微妙過ぎる距離
「分かんねえ……」
彼との距離感が、まだ、掴めない。どうしても昔の雪彦の姿が重なり、甘えて、意地を張りたくなる。でもそれではいけないのだ。全て無かったことにして、古い知人のように接するのが秀自身と、彼の望みなのだから。
「仕事……これは仕事……」
仕事、と何度も自分に言い含める。職場の雰囲気を悪くしないよう、円滑に職務を進めるため、平静を装うのは当然のこと。公私混同しかけの秀が間違っている。
まあ基本的には職場でしか会わないのだ。この調子ならきっと、大丈夫。一か月ぐらい、切り抜けられる。
そう自分を奮い立たせてグラスを両手に振り返ると、すぐそこに雪彦が佇んでいた。
「えっうわ! わ、びっくりした……なんで」
「……驚きすぎですよ」
雪彦が視線を落とした地面を見下す。急に動いた衝撃でこぼれた麦茶が、小さな水たまりになっている。
「冷蔵庫の中身の管理とか、何か聞けることがあればと思って来てみただけです。こんなに驚かせてしまうとは思いも寄りませんでした」
「ッ、急に後ろに人がいたらそりゃビビるだろ!」
「そうですか? ……俺のこと、意識しすぎなのでは?」
「なっ」
とぼけたような顔で言う男を睨みつけながら、グラスを台の上に置く。
「そんなわけ、なっ——いだっ!」
文句を言ってやろうと一歩踏み出した瞬間、ぬるりと足元が滑って近くのラックに激突した。
「⁉ 秀さん!」
嫌な予感に頭上を見上げ、堆く積み上げられていたダンボールの山がぐらりと傾いだと思うと、それが落下するより先に雪彦の腕が伸びてきて、抱きこまれるような形で地面に組み伏せられた。
「っ……!」
「っ、てて……」
どさどさという軽い落下音が止んだ後、うっすらと目を開ける。
「大丈夫ですか、秀さん! どこか痛むところは⁉」
「! ……平気」
蛍光灯を遮るように覆いかぶさる男の顔には、明らかな狼狽が滲んで見えた。秀を守ろうとしてくれたらしく、顔の両側についた雪彦の腕の中に閉じ込められていた。彼の長めの髪が、頬の表皮を滑ってくすぐったい。
雪彦は、秀の頬を、頭部を、両手両足を一つ一つ執拗に見分した。異常なしと判断出来たのだろう時になって、やっと彼の纏っていた緊張が解けた。その表情は安堵に満ちている。
「あなたは昔から痛みに鈍感でしたから……木から落ちて足にひびが入った時でさえ、捻挫だと言って聞かずに悪化させたでしょう」
「……おい」
「傷口が膿んでも我慢するばかりで、あれは悪い癖です。もう少し自分の身体を大事に——」
「わ、分かった! 分かったからどけよ!」
まだ何か言いたそうな雪彦の身体を押しのけ、どうにか彼の下から抜け出す。心臓がばくばく言っている。華奢に見えて、腕も、身体も逞しい。
「それだけ機敏に動ければ大丈夫そうですね」
「ああ! お前こそ、怪我してないのか」
「え……秀さんが、俺の心配をしてくれるんですか」
雪彦がはっ、と息を呑んで口もとを覆う。
「なんだよ、悪いかよ」
「いえ、明日は槍でも降るのかなあ、と」
「はあ?」
文句を言おうとしたところで、過去の、彼への仕打ちの数々が脳裏を過る。雪彦は秀を心底大事にしてくれたが、秀はむしろ、彼をないがしろにしてばかりだった。
「俺は人より頑丈にできていますから、問題ありませんよ。それより、ここを片付けねばなりませんね」
飄々と言ってのけた男は、そそくさと服の埃をはらい始める。秀もそれには賛成だった。
——それにしてもさっきの雪彦の様子は妙だった。本当に俺を心配しているようだった。
いや、きっと昔の癖が出たのだ。わざわざ嫌いな相手を身を挺してまで守る必要はないのだから。自分にそう言い聞かせて、片付けへと意識を集中させた。
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