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16.追いやられた過去

「うわ……すっげー……」  目の前に広がるのは、深いロイヤルブルーの大海原(おおうなばら)。  強い日差しと吹き付ける潮風、きらめく海面に目を(すが)めて、秀はしばし呆然とした。  島内の南西には小さな山がある。二十年ほど前までは側面を茶畑が作られ、麓は里山として利用されていたが、今やほとんど人が立ち入ることはない。特に夏場は蚊が多く、薮には蛇が潜むことから、観光客にも安易に立ち入らぬよう注意を呼び掛けるほどである。祭りの際に表の神社に人が集う程度で、それも祭りの中心部は集落の中であるから、寂しいものだった。  雪彦が案内したのは、その山裾から伸びる獣道を進んだ先——普段は近づくことさえままならぬ、最奥のせり出した岩壁の上だった。 「お役に立てましたか? 向こうの畑の持ち主ぐらいしか行き来しませんから、まだ通れるか不安でしたが……そろそろ草を刈った時期だと思い出したんです。何とかなって良かった」 「……何でお前がこんなとこ知ってんの? 来てたったの二週間だろ」  訝しげな秀に、雪彦は少し驚いたような顔をした。 「ご存じありませんでしたか? この島は俺の母の故郷です」 「へ⁉」  衝撃のあまり、手にしていたレンズを取り落としかけた。 「富久澤に引き取られる前は、ここで祖母と暮らしていたんですが」 「いや、知らねーよ! 言えよ!」 「すみません、気づいていないとは思わなくて。例えば先ほど話しかけてくださったご老人方は皆、家族や幼い頃の俺を懐かしんでくれてたんです。秀さんはもうどこかで小耳に挟んでるだろうとばかり」 「……あー……さっきの、それでか」  思い返してみると、『こんなに大きくなって』とか『相変わらずお母さんそっくりね』なんて会話をしていた気もする。二日目からずっと、雪彦から意識を逸らそうとしたのが(あだ)になった。 「はい。所長の後藤さんにも色々とお世話になり、今回声をかけていただいたんです。……秀さんは、全部理解した上でこの島を訪れていたのかな、なんて思ったりもしたんですが」  秀はぶんぶんと顔を横に振った。まさか地元を離れて移住した土地が、最も会いたくない人物の故郷だったなんて思いも寄らなかった。 「本当に俺の思い過ごしだったようで。……奇跡的な偶然もあったものですね」 「とんだ奇跡だよ」  秀は小さくため息を吐いてカメラを構えた。露出を下げ、絞りのF値を高めに設定する。こうすることで海の色に深みが出て、細かな海の表情を掴みやすくなる。これは絞るほどピントが合いやすくなるのに比例して取り込める光の量が減少し画面が暗くなりがちなのだが、この日射しならば多少は問題ない。  秀が試行錯誤して撮影する姿を、雪彦が穏やかな表情で見つめる。 「どんな形であれ、無事な姿を確認できてよかった」 「言いすぎだろ」 「いえ。(おさむ)さんからは、どこでどう生きてるのかもわからない、と聞いていたので。お元気そうで本当に安心しました」 「うわ、その名前久しぶりに聞いたな」  一門の期待を背負いながらも自信に満ち溢れた次兄の顔を思い出し、彼は彼で大変だろうな、と他人事のように思った。 「理さんは、秀さんのこと気にしておられましたよ。兄弟二人きりですから、なんだかんだ連絡がなくて寂しいのだと思います。もし稔さんに続いてあなたまで……すみません、余計なことを口走りました」  はっ、と雪彦が口を噤むのと同時に、秀はぴたりと撮影をやめた。もう、顔も声も思い出せないような、今は亡き長兄の姿が脳裏を過った。  誰よりも優秀で心優しく、けれど誰よりも繊細で孤独だった、自慢の兄だ。  彼は、父による激しい性的虐待の果てに自ら死を選んだ。  雪彦が『秀さんは僕が守ります』と言い出したのも、あの後からだった。  あの日、二人は夜毎父に説教をうける兄を救うべく、仕置き部屋の隣室に忍び込んだ。傾いだ(ふすま)の隙間から見たのは、すすり泣く息子に覆いかぶさり、まだ未成熟な臀部(でんぶ)に腰を押し付けて振る父の姿だった。 『ゆ、ゆき、あれ、何で? どうして? どうして父さんが——』  ――兄ちゃんと、何してるの。  当時、行為を表す言葉もその意味も知らなかったが、兄が殴られるよりも怖いことをされているのだということは理解できた。がたがたと震え出した身体を抱きしめ、目を塞ぎ、手を握ってくれた雪彦の存在がなければ、あの家で生きていくことは出来なかっただろう。  フラッシュバックした記憶に腹の底に黒いものが渦巻き始め、秀は唇を噛んだ。

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