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17.それでも過去は美しかった
「……親父って、何してんの」
「お変わりありませんよ。秀さんが離れてからまだ五年しか経ってませんし、まだまだ現役です。相変わらず家を盛り立てることしか頭になくて……俺には親戚の系列会社を継げ、とそればかりです」
「え、お前に?」
雪彦は意外にも不満そうに小さく頷いた。
「俺は本来、富久澤の人間ではありません。そんなのが飛び込んだら、連中は嬉々として俺をこき使って食いつぶすでしょう。そんなの絶対嫌です。元々、俺の母はあの家のぼんくらに騙されて俺を身ごもったのですから、命を懸けて一族ごと会社を潰すことはあっても、わざわざ繁栄させるような真似をするわけがない。そんなことも分からないようですけどね、あの家の人は」
大きく嘆息した雪彦が、唖然とする秀の顔を見て慌てて視線を泳がせた。
「すみません、秀さんのことを悪く言ったわけじゃないんです。あなたのご親戚が嫌いだというだけで」
「いや、別に……お前もその、家のこと恨んだりしてたんだよな、って今更思っただけで」
「秀さんのことは、違いますよ」
自省を始めた秀の言葉を遮るように、雪彦が鋭く言い放った。その声が普段よりも硬くて、秀は眉根 を寄せて首を左右に振った。
「同じだろ」
「全然違います」
そこはどうしても譲れないらしい。もう秀の前でいい子ぶる必要なんてないと思うのだが。
余計に困惑して項垂れたところで、秀はやるせなくなって、大きく息を吐きながら言った。
「——悪かったよ」
「え?」
胡乱 げな面持ちの雪彦を一瞥して、何でもないと首を横に振った。謝罪したところで、過去を清算して罪悪感から逃れようとする秀のエゴでしかない。雪彦は赦すとしか言いようがないのだからフェアじゃない。分かっているのに、また雪彦に甘えようとする自分に嫌悪が募る。
だから、一拍おいて呟かれた返答は、予想外のものだった。
「……俺は、ゆるしませんけど」
「——……」
秀は一瞬だけ目を見開いたあと、肩を落とした。
「……そっか」
もう、何も言えなかった。本当に自分は愚かだ、何を期待していたのだろう。雪彦が秀を許す理由なんてどこにもないし、赦さなくてはならないわけでもない。受け入れて関係を再構築したいと思わせるほどのものも、秀にはない。
自分の浅はかさに嫌気がさして泣き出してしまいそうなのをごまかそうと、カメラを構えた。ファインダー越しにたくさんの青を切り取ると、少しだけ気分が晴れていく気がする。
「昔から、海がお好きでしたよね」
雪彦はその場にしゃがみこんで、何事も無かったかのように続ける。
「夏に海水浴に出かけるたび、俺に写真を撮って来てくれました」
「……そんなこともあったな」
「そういうことばかりでしたよ」
家族で外出する時、雪彦はいつも置いてけぼりだった。
誘っても「僕はいいです」と言って読書を始めるから、両親も人混みが苦手なのだろうと適当に理由をつけて無理に連れて行こうとはしなかった。この時ばかりは雪彦が頑固で、秀が誘おうと首を横に振るばかりで困惑したのを覚えている。
「俺にとって海は別に珍しくともなんともないものでしたが、不思議とあなたの写真で見ると素敵なもののように見えました。それだけ好きなのだろうな、と」
「そんなガキの遊びに大げさすぎ。まあ、でもここの海は本土の海水浴場より綺麗に見えるよな。夏ってのも大事かも。彩度とかコントラストと一緒に、見えるものの温度が上がるから。何もかも生き生きしてる気がする」
味気ない緑一色の山奥でさえ、緑が濃さを増して蝉が鳴きわめけば自然と心が浮足立ったものだ。
「ああ、まあ気持ちは分かります。ご実家の冬の厳しさと言ったらなかったですものね」
「確かにな……寒さとか、冬って季節にトラウマがあるのかも」
冬場は雪に閉ざされて外で遊ぶこともかなわず、幼い頃はよく四人でテレビゲームをして過ごした。それから読書やボードゲームをして、炬燵を囲んでみかんを食べた。中学に上がってからは個々で過ごすことが増えたが、宿題やおやつをつまむために炬燵で顔を合わせる機会も少なくは無かった。
会話を話する時間は有り余っていたにも関わらず、自分の事ばかり話したがった秀は雪彦のことをあまり知らない。それをここに来て思い知らされている。
「俺はあなたとゆったり過ごせる時間が増えるから、嫌いじゃなかったですよ、冬」
「なんだそれ、嫌味か?」
「まさか。正直な感想ですが」
「ああ、そう」
苦笑した雪彦に目を奪われ、すぐ顔を背けるように踵を返して無意味なレンズ交換を始めた。
勘違いしてはいけない。雪彦は、自分をゆるさない。後腐れのないよう当たり障りのない会話をしているだけだ。
彼はもうじきこの島を去り、秀の望んでいた“友達”のような関係は終わる。
考えれば考えるほど、目頭が熱くなる。
「あー、なんか泣きそう」
「? なぜです」
「海が綺麗すぎて」
――俺はやっぱり、お前が居ないと駄目なのかもしれない。
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