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18.聞いてない!
それから数日が過ぎ、夏祭りは一週間後に迫った。日々多忙を極め、新しい備品や催し物の最終確認など、祭りの実行委員と入念な調整を行いながら、舞台を用意したり街路に提灯を吊るすのを手伝ったりする。これには雪彦が抜擢 され、朝のみ案内所に顔を出してはそのまま出払い、直帰するという日が続いていた。
時刻は七時を回っている。
秀は汗にまみれながら、疲弊した身体に鞭を打ってペダルを漕いでいた。
「あ~……疲れた~……」
秀の住まいは、案内所から自転車で七分ほどの、緩やかな坂道を上り切った先にある。築二十三年の古びた平屋建ての借家で、十畳の和室にすっかり色あせて黄色くなった畳が敷かれている。洗濯物を干せる程度の庭付きで、台所と風呂と洗面所、それから縁側が付いている。これも後藤の紹介で、家主には諸経費込みで一万六千円を納めていた。一人暮らしには不相応な物件だが、この島には他にアパートといったものが存在しないのだと言われればそれまでだ。本土からの通勤、下宿、どれもこの借家に比較すると現実的ではない。
やっとの思いで坂を上り切ると、自転車を停めて一時休憩を入れた。視線を上げて目の前の我が家を見やり、ふと違和感を抱く。
「あ、電気消し忘れたのか」
自宅の窓から光が漏れている。おそらく玄関から入ってすぐの台所からだ。電気代の心配を始めつつ、再びペダルを漕ぎ出してラストスパートをかけた。
フレームに錆の浮いた愛車を軒下に停めると、どこからともなく美味しそうな匂いが漂ってきた。むき出しの食欲を刺激されて思わず腹が鳴る。
――家に帰ったら美味いメシが出来てるっていいよな。
そんなことを思いながらのそのそと玄関の引き戸を開ける。
「たでーまー……」
「おかえりなさい」
秀は目を剥いて後ずさった。
「は⁉ なんで⁉」
雪彦が居た。
シンプルな黒いエプロンに身を包み、顔だけこちらに向けて鍋をかきまぜている。二口コンロのもう片方にはフライパン、シンクには使い終えたボウルや平皿が並び、三角コーナーには少しの生ゴミ、まな板には包丁と長ネギ——当然のごとく広がる調理風景に、驚きのあまり思考が停止してしまう。
「なんでとは……? あ、カツ丼にネギは散らさない派でした? すみません、食事はまだだと思って作ってみたんですが、もう召し上がってたりしますか」
「ちがっ、そうじゃ……、カツ丼……?」
「はい。もう卵でとじるだけですが、あと一品、煮物がまだかかりそうです。先にシャワーを浴びられた方がいいと思いますが」
好物の登場に反射的にたじろいだが、問題はそこではない。上手くはぐらかそうとしたのだろうが無駄である。もう秀は子供ではない。言いくるめられて手のひらの上で転がされていた純粋な時代は終わったのだ。
「そうじゃねえよ! なんでお前がうちにいんのかって話!」
「え? あれ、後藤さんから連絡がいっているはずですが」
「は? 聞いてねえよ」
雪彦は目を何度か瞬かせた。
「それは……そうですか、驚かせてすみませんでした。俺、これからこちらに居候させていただくことになりました」
「……は!」
憤 る秀を宥 めすかしながら語られた雪彦の話はこうだ。
彼は民宿の一部屋を厚意で貸し出されて生活を続けていたが、次第に観光客でにぎわい始め、満室になる恐れがあると知り部屋を探すことにした。宿泊料は格安であったから、雪彦の滞在で儲けが減るのは申し訳ないと思ったのだ。そこで仮住まいを探そうと後藤に相談したところ、秀に話をつけておくから一緒に暮らせ、と命じられたらしい。鍵は大家から受け取っており、場所は以前、酔った秀を送り届けた時の道順を覚えていたそうだ。
「……あのオッサン……」
そういう大事なことは早く言ってほしい。言われたところで拒否しただろうが。
眉間を押さえて頭痛を堪える秀に、雪彦はむかつくほどの涼しい顔で頭を下げた。
「そういうわけですので、何卒よろしくお願いします」
「いや無茶言うなよ……! 服とか歯ブラシとかおまえの分ねーし」
心の準備だって出来ていない、と慌てふためく秀を見ても、雪彦は平然としている。
「ああ、そういうのは大丈夫です。もう運び込んであるのでご心配なく」
部屋の方を見ると、大きなバックパックがテーブルの脚に立てかけるように置かれていた。独り身の若者の自室相応に物が散らばる空間で、妙な威圧感を放っていた。珍客の登場に、首を振る古い扇風機が困惑しているように見えた。
言いたいことはたくさんあるのに、考えがまとまらない。頭を冷やすべきだ。
「……シャワー浴びてくる」
「背中流しましょうか?」
「ぜってー来んな!」
言い捨てて台所との間仕切りの戸をぴしゃりと乱暴に閉めると、雪彦はそれ以上追いかけてこなかった。
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