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19.ざわめく心

「…………はぁ」  背後から鍋の煮え立つ音と、包丁がまな板を叩く小気味良い音が響いてくる。エプロン、手料理、風呂、まるで同棲しているみたいな——。 「……そんなわけあるか」  ぶんぶんとかぶりを振って馬鹿な期待を押し殺す。あれはきっと彼自身の夕食のついでであって、秀のためのものではない。言い聞かせながら服を脱ぎ散らし、風呂場に飛び込んで、真水のシャワーを頭から被る。  汗と一緒に、淡い期待も、日ごと募る寂しさも、全部、洗い流してしまえたらいいのに、上手くいかない。心の中から彼が消えない。むしろ、少しずつ上書きされていく。塗り重なって鮮明になってしまう。そのたびに心が軋む。  雪彦に出ていけ、というのは簡単だけれど——これ以上彼との間に、妙なわだかまりを作りたくない。 「めんどくせえなあ」  自分の考え方が。  全身を洗い終えた秀は、諦めて浴室を後にした。バスタオルと下着を取り出し、適当に拭う。Tシャツとジャージを着て首からバスタオルを下げれば、それが秀の部屋着だ。 「あっつ~……あれ?」  部屋を覗き込むと、座り込んだ雪彦がテーブルの上をじっと見詰めていた。 「……何してんの?」 「あ、すみません。この本とか、どこまで片づけていいのか分からなくて」 「あ~」  撮影に関する技術書やポートフォリオ用のファイル、結婚式場でのアルバイトの明細などが、昨日広げた状態のままだった。技術書には付箋がびっしりついているし、読み込んだページは少しだけヨレていた。 「あー、適当に避けるわ。後できちんと整理はするから」 「分かりました」  頷いて振り返った雪彦が、秀の姿を見てぎょっと目を|瞠《みは》る。 「ああ、今、飲み物を……ちょっと、びしょびしょじゃないですか!」 「えっ、そうか?」 「そうかって……まさかそんな恰好で出歩いてるんですか⁉」  ずかずかと歩み寄って来た雪彦に首のタオルを引っ掴まれ、ぐしゃぐしゃと頭を撫でまわされる。随分と乱暴な動きだ、昔はもっと丁寧だったのに。  秀は渋々、脱衣所に引っ込んで髪も全身も拭きなおし、Tシャツも着替えた。戻ると雪彦が満足げに頷いて、テーブルに着くよう促す。 「献立ですが、丼ものがお好きだと記憶していたので、カツ丼と、茄子の煮物、いただいたワカメで味噌汁を用意してみました。リクエストを聞く暇が無かったので適当に考えましたが、もし好みが変わっていたらすみません」  雪彦がアクリルのコップに麦茶を注いで言う。適当に選んだ割には、秀の嗜好の真ん中を射抜いた素晴らしいメニューだ。暑い日にカツ丼なんていうと皆顔をしかめそうだが、健康優良児な秀は夏バテをした経験などないし、胃も快調である。そうめんは嫌いじゃないけれど、物足りない気がしてしまう。  コップを受け取り、小さく「大丈夫」と答えると、雪彦の表情が和らいだ。 「もし苦手な食材があったら教えてください。家事は俺が担当します」 「そこまではいいって」 「好きなんです、家事とか。ではいただきます」  変わったやつだな、と思いながら、雪彦に続いて胸の前で両手を合わせる。湯気を立てるカツ丼をそうっと口に入れると、味の染みた衣と卵がほろ、と崩れた。 「……美味ぇじゃん……!」  想像以上のクオリティに目を丸くすると、雪彦がほっと安堵の息を漏らして微笑んだ。 「気に入ってもらえて良かった。俺の作ったものなんて食べたくない、なんて言われたらどうしようかとハラハラしていたんです」  確かに、数年前の秀が言い出しそうなことだ。まだそんな人間だと思われてるんだな、と思うと少しきまり悪い。 「別に……メシに罪はねーからな」  茄子の煮物を口に放り込んで——言葉に詰まった。完全に母の、おふくろの味というやつだった。その再現度の高さに度肝を抜かれる。 「ああ、それは富久澤のおば様に教わったんですよ。お口に合いますか」 「……うん」  少しだけしんみりする。いい思いの出の少ない実家だが、それでも自分は彼らの家族だった。それにここまで育ててもらった恩は消えない。楽しかった記憶も同じだ。 「……秀さん?」 「何でもない。ちょっとテレビのリモコン貸して」 「ああ、はいどうぞ」  最近、ぼうっとすることが多くなった。全部、この雪彦のせいだ。頭の中から彼を追い出すべく、賑やかなバラエティ番組を流した。 「……ふふ」  今度は雪彦の微笑みが気になって落ち着かなくなったのは、誤算だったとしか言いようがない。  ――こいつ、彼女とかいるのかな。  綺麗な横顔を眺めて、そんなことを考える。家事が得意で、美形で、頭も良い。巷の女が放っておくわけがないが、もし富久澤のどこかの会社を継ぐのなら、それ相応の令嬢と結婚することになるだろう。  雪彦に似合う凛々しい美女か、それとも思わず支えたくなるような可憐な女性か。  なぜだろう、急に料理が味気なくなった。砂を噛んでいるようだし、胃が縮んだみたいに上手く呑み込むことが出来ない。それから、胸の辺りがもやもやする。 「……美味しくありませんでした?」 「い、いや……」  箸が止まったのを見咎められ、秀は慌ててごまかすように丼をかき込んだ。

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