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20.このまま夜が明けなければいいのに

「布団が足りねえ……」  その失態に気づいたのは、草木も寝静まる二十三時頃のこと。早々に就寝しようとした矢先のことだった。準備は万全だというからすっかり失念していたのだ。近所に借りに行こうにも、もう夜更けだ。迷惑になる。もう窓も戸も閉め切ってクーラーも付けて、ゆったり眠るつもりだったのに。  台所からミネラルウォーターをあおりながらやって来た雪彦に視線を投げて、大きくため息を吐く。緩いシャツとパンツを着ただけなのに、モデルのオフショットのような華やかさがある。少しだけ見惚れたのは内緒だ。 「お前、ベッドで寝ろよ。布団一組しかねえから」 「え? 俺は床で大丈夫です。ちゃんと家主が使ってください」 「いや身体痛いだろ。それにここ、家の中なのに虫が入ってくるし」  雪彦は少し顔をしかめたが、すぐに首を横に振った。 「一晩ぐらいなら大丈夫です。では俺はここで」  雪彦は、テーブルを挟んだテレビの向かい側を指差した。鋼の意思を宿した瞳に射抜かれ、秀は苦虫を噛み潰したような顔をする。やはり、客人を床で眠らせるなんて抵抗がある。これが友人同士の集まりならば話は違うのだろうが。 「……けどさあ」  煮え切らぬ秀を見て、雪彦が首を傾げた後、「ああ」と目を細めた。 「もしかして、添い寝してほしいんですか?」 「ばっ……」  揶揄うような視線に腹の底がかっと熱くなった。  それでもどうにか言葉を引っ込めたのは、最近になってようやく、雪彦という男のやり口が分かってきたから。 「……それでいいよ」 「へ?」  唖然とする雪彦を黙殺して、ベッドに転がった。  秀は昔から、単細胞で短気だった。頭に血が上ると周りが見えなくなるし、嫌な思いをしても良いことがあるとけろりと機嫌が直る。雪彦はそれを利用して——自分が悪者になろうとも、秀を挑発して、上手くコントロールしてくれていた。雪彦に口先で勝てなかったのも、勝ったはずなのに負けたような気分が付きまとっていたのも、そのせいだった。  今度はそれを、秀が逆手に取る番だ。 「電気消せよ。明日も早いし寝ようぜ」 「……俺も、そこ、いいんですか?」  立ち竦んだ雪彦が怪訝な面持ちで問う。手ひどく拒まれるのではないかとも思ったが——そういう困惑の仕方ではないようで安堵する。まあ、ここまで来たら嫌なら嫌で構わないのだが。 「良いっつってんだろ。……来いよ、早くしろ」  少し拗ねたような言い方になってしまった。ごろん、と彼に背中を向け、寝転がるスペースを空けて返事を待つ。それでも男二人が寝るには、きっと狭い。まるで告白したときみたいに、胸がどきどきした。 「……では、お言葉に甘えて」  雪彦が苦笑した気配と共に、ぱっ、と電気が落ちる。身を固くした途端、ベッドが緩く軋み、衣擦れの音が響いた。成人男性二人の身体はやはりシングルベッドに収まりきらず、秀はさらに端に身を寄せて、雪彦は何度も寝返りを打つ。どうしても身体が触れ合って、冷房があるにしても暑苦しいことこの上ない。 「お前、もうちょっと縮め」 「無理です。秀さんこそ寝相は良くなったんですか? ベッドから突き落とされるのは流石に嫌ですよ」  普段より甘い雪彦の息遣いが、すぐ後ろから聞こえる。 「懐かしい……ですね……。ぜんぶ。一緒の布団で眠るのはもちろん、秀さんの体温と、秀さんの匂いと——」 「変なこと言うなバカ」  慌てて遮ると、既にまどろみに落ちかけた雪彦の声が途絶えた。それ以上は心臓が口から飛び出てしまいそうだ。  このままではいけない、と一先ず瞼を閉じた。けれど暗闇の中に雪彦の顔がちらついて、眠気が訪れるどころかさらに目が冴えていく。たぶん、普段と体勢が違うのも影響している。こんなところで自分の繊細さを知る羽目になるとは。 「……」  落ち着かない。雪彦はそろそろ眠っただろうか。思い切って身を捩ろうとした時——。 「……眠れないんですか」 「……まあ」 「俺もです」  囁いた雪彦が、深呼吸するのが聞こえた。 「ねえ、秀さん。聞いてもいいですか。嫌なら、答えてくれなくていいんです」 「なんだよ」 「秀さんがあの家を出たのは、やっぱり俺のせいなんですか」 「…………」 「俺、何かやらかしてしまったんでしょうか」 「……」 「そうなんですね」  ――答えなくていいなんて嘘じゃねえか。  というか、自覚は無かったんだな、というところに呆れた。彼の中で、あのキスは大した意味が無かったということか。そもそも過去のことを忘れろと告げたのは彼だというのに、初日から昔のことを掘り返してばかりだ。いったいどうしろと言うんだ、と憤りさえ覚える。  そんな秀の心情を知ってか知らずか、雪彦が一際大きく息を吐いて黙り込んだ。  別に彼を責めるつもりはないのに、上手く言葉が出ない。違うと言ったら――雪彦はそれまでの秀の行いを赦してくれるのだろうか。  きっと、それはない。  ひどく落ち込んだまま目を瞑る。しばらくじっとしていると、背後でもぞりと雪彦が動く気配がして——身体に、縋るように抱きついてきた。 「は⁉ な、おい、おい……!」  慌てふためく秀に反し、背中に押し付けられた雪彦の口からは「んん……」と焦れたようなくぐもった寝言が漏れた。  こいつ、寝ぼけてやがる。  胴体を絡め取るように回された腕は思いのほか力強く、ちょっとやそっとじゃ離れそうもない。秀はしばらくもがいた後、諦めて一気に脱力した。  以前、泥酔した状態で送り届けてもらった時にも、似たようなことがあった。被せた布の上から抱きつかれたのだ。男では硬くて抱き心地も良くないだろうに——いや、もしかして誰彼構わず手を出す悪癖があるのかもしれない。後で注意すべきだろうか。  少しの時間とはいえ必死に動いたためか、心地よい疲労感と眠気の波が押し寄せてくる。雪彦の存在も大きいだろう。こんなに彼を意識していなかった頃は、傍にいるだけで気持ちが安らいだものだった。  腰のあたりを縛める腕に、そっと指を這わせる。布越しではない彼の体温は、やはり僅かに冷たい。 「……お前は何も悪くないのにな」  起きているうちには決して言えない言葉を置き去りにして、秀は涙を堪えた。

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