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22.抑えきれないこの感情の名は

「……熱も下がったようですね」  秀から体温計を取り上げた雪彦が、嘆息混じりに言う。秀はその声を憮然と聞いていた。  須子島の診療所には常駐の医師がいない。本土から通う壮年の内科医は、先ほど、秀が意識を取り戻したのを確認するとフェリーの最終便に合わせて引き上げていった。  最低限の薬品や医療機器があるために医者の帰宅と同時に診療所は施錠されてしまったが、医師が「涼しいところで休んでいた方が良いだろうから」と診療所に隣接した集会所を開放してくれた。まだ身体がだるくて家に帰れそうもなかったので渡りに船だった。  秀はその広間に横たわり、天井の接触の悪い蛍光灯を眺めたり、暮れなずむ空を見上げたり、ともかくぼうっとしていた。  点滴と経口補水液で体調は回復しつつあるが、情けなさと申し訳なさで気分が重く沈んでいる。 「秀さん、本当にもう大丈夫ですか」  開け放たれた縁側から生ぬるい風が吹き込み、吊り下げられた風鈴がちりん、と鳴る。  普段以上に言葉の減った秀を見た雪彦が心配そうに見詰めてくる。 「……ああ」  昼間——軽い熱中症で倒れた秀が際に古くなっていた梯子にぶつかり、連鎖的に足場の一部が崩れたのだという。  点滴のおかげか、頭の芯がぐらつくような感覚はもう無い。  秀を降りそそぐ工具から庇った雪彦は、足に怪我を負って治療を受けた。ふくらはぎを真新しい包帯で覆われているものの、二人とも奇跡的に大きな怪我は無く、最低限の打身と擦り傷で済んだようだ。明日になっても痛むようであれば、本土できちんと検査を受けるよう指示されている。  備品の整備や注意を怠ったとして、祭りの実行委員会の人々には謝罪を受けた。注意不足だったのは秀の方だし、体調を崩したのも秀の方だったのだから責めるつもりなんて毛頭なかった。それより、皆が楽しみにしている祭りにケチをつけてしまう形になったのがとても辛くて申し訳がない。 「カメラ、大丈夫でしたか。高価なものでしょう」 「…………平気」  雪彦は机の上にきちんと並べられたカメラとレンズの入ったカバンを一瞥した。  秀は、何かを取り繕うように喋る雪彦に胡乱な目を向けた。自分はこれまでにないぐらい怒っているんだぞ、というポーズを見せてやる。  その原因が分からないのだろう、雪彦が珍しく当惑している。これまでは秀の機嫌なんて容易く手のひらの上で転がせていたので、類を見ない秀の頑なな態度にどうしたらいいのか分からないのだろう。焦れたように机を叩いている。立ち行かなかなくなった時に見せる、彼の昔から癖だ。 「あの」 「なんで」 「え」 「なんで、俺のこと庇ったんだよ」  俯いた秀が声を押し殺して呟く。雪彦は意図を拾いかねて形のいい眉をひそめた。 「なんでって、あなたに怪我なんてしてほしくなくて……」 「だからなんで?」  雪彦は小さく嘆息して、聞き分けの悪い子供に言い含めるように言う。 「……昔、約束したでしょう。あなたのことは俺が守ると」  秀はすぐに言葉を理解できず、一拍おいて顔を上げた。  唖然とした。  雪彦は、穏やかな——何かを諦めたような顔で、こちらを見ている。 「もう、それも許されないみたいですから。最後にあなたの盾になることが出来て、嬉しかった」 「……何言ってるんだよ」  声が震えた。訳が分からなかった。  突き放しておきながら、歩み寄ろうとしてくる。日々の生活も、嗜好も、秀を優先する。世話を焼いてくる。挨拶は欠かさない。気さくに冗談を言う。抱き枕にしてくる。口うるさい。終いには、自分の身を顧みずに秀を救おうとした。当たり所が悪ければ致命傷にだって成り得たのに、平然としている。彼が何を考えているのか、全く理解できない。  秀はぎり、と|歯噛《はが》みして、勢いよく雪彦に掴みかかった。 「なんなんだよお前……っ!」 「す、秀さ——」 「ほんとさあ……! 忘れろって言ったのはお前だろ⁉ なのになんでこんな、優しくするんだよ!」  目頭が熱い。期待させないでほしい。本当は、こんなことが言いたいんじゃない。素直に礼を伝えて、でも無茶はしないでくれと心配していることを分かってほしい。自分なんかを守るような真似をして、お前が大怪我したらどうするんだと憤っていることも。  感情がぐちゃぐちゃに絡み合って、溢れるのはどうでもいいセリフばかり。  簡単な言葉さえうまく並べられない自分がもどかしくて、ひどく情けない。 「だから……え、ど、どうして泣いてるんですか」 「お前のせいだろ⁉ お前が全部、ぜんぶ、ワケ分かんないことばっかするから! あの時だってそうだぞ? お前に、嫌われたり、憎まれたりしたらと思ったら耐えられなくて、俺は」 「……なんの話ですか」  見開かれた雪彦の濡れた瞳に、泣き叫ぶ自分のみっともない姿が映り込んでいるのを見て、秀ははっと息を呑んだ。  ぶわりと雪彦の纏う雰囲気が変わる。 「いつ? どうして俺があなたを嫌うんですか。そんなこと有り得るわけないでしょう?」 「は、え、何だよ落ち着けって……」  強く両腕を掴まれたかと思うとがくがくと揺さぶられ、怯んで勢いが弱まる。 「放せよ……! 高校の夏祭りのとき……、急にキスしてきやがっただろ」 「は……え? え?」  数秒の間、静かにまばたきをした雪彦が愕然とした様子で口ごもる。

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