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23.『    』

「……秀さん、あれが原因で俺を捨てたんですか」 「ああ? 捨てるとかじゃ」 「捨てたでしょう。それでなんです、まさか、そんなにキスが嫌だったんですか」 「だってお前の、アレ、嫌がらせみたいなもんだろ?」  秀が『そういうこと』を嫌いだと分かっていたのに、『そういうこと』をした。  雪彦はゆっくりと秀の腕を開放し、視線を逸らして考え込むようなそぶりを見せた。やがて信じられない、と言った様子で首を左右に振り、呆れたような顔をしたあと、溢れる秀の涙を指先で拭った。 「早とちりが過ぎます……言ってくれれば、こんな……いえ、というか、あなたの考えが本当に理解できません。何で口づけを嫌がらせだとか思ったんです。嫌いな人間にするわけがない」 「は? お前こそ理解できねーよ。俺がそういうの冗談でも無理だって知ってただろうが」 「……稔さんの件で、ですよね。いや、そうか……それは分かってました。でも、魔が差したというか、いけるかなと思ったというか……」 「荒療治のつもりだったって?」 「違います、そうではなくて」 「じゃあ何で……!」  詰め寄りながら、なんでこんな話になってしまったのだろうと内心で頭を抱えていた。お礼を言って、注意して、それで終わりに出来たはずなのに。これまでのことは全て忘れて、もう話題にするつもりもなかったのに。今更知ったところで意味なんてないのに。  互いの意見をぶつけ合ったところで、雪彦と仲良く過ごす未来なんてないのに。  つくづく、雪彦の前だと短気で頑固で子供っぽい、素の自分が抑えられなくなってしまう。それがまた情けない。  雪彦はため息を吐くと、僅かに(まなじり)を下げ、すすり泣く秀の頬を包み込むように撫でた。  その優し気な手つきに驚いて、秀は呼吸を忘れる。 「なんでなんでって、言わなきゃわからないんですか」  雪彦は視線を彷徨わせた。動揺している。あの雪彦が。  夜の虫の声がうるさい。同じぐらい、心臓の音もうるさい。  少しの間まごついてから、ため息のような声を漏らして(ささや)く。 「好きなんです。秀さん、あなたのことが」  ——何を言ってるんだ。 「……なんで?」  驚きのあまり涙が止まって、口から飛び出たのは間抜けなセリフだった。  それを聞いた雪彦が意外そうに眼を丸くして、しっかりと秀に目線を合わせて顔を覗き込んでくる。 「……それだけ、ですか?」 「は?」 「嫌じゃないですか、こういうの」 「…………あれ、いや」  どう答えたらいいか分からずに硬直する秀に、雪彦は「愚問でしたかね」と困ったように笑った。  秀の丸く瞠った瞳から、ぽろりと最後の一滴がこぼれ落ちる。それをすくいあげた雪彦は、また考え込んだ。 「さあ……最初は弟みたいなものでしたが、放っておけないなと思っているうちに、いつの間にか。それを恋心だと自覚したのは、俺だけ中学に上がって離れてる時間が多くなってからだったかな」 「……」 「でも、あんなに尽くしたのに、あなたは俺を捨てた。それだけは許せなかったんです。傍においてくれると約束したのに、あなたは俺のいない土地に居場所を見つけて——俺なんて、もういらないんだと思って」  一緒に海を見下した時はそのことを言ったのだと、雪彦は語る。 「……分かりづらいんだよ、お前」  てっきり、彼を召使いのように扱っていた件だとか、富久澤の仕打ちのことだと思っていた。 「秀さんこそ。……初日に俺が全て無かったことにしてくれと言ったのは、その上で、もう一度仲良くなるチャンスが欲しかったからです。まあ、露骨に避けられるものだから、途中からは諦めて、あなたと最後の思い出を作る方向にシフトしましたが」  細められた雪彦の双眸は、秀越しに別の物を見ている。それが幼い日の二人の幻影だと気づくのに、そう時間はかからない。 「弱いくせに虚勢を張るあなたがいじらしくて、ずっと好きでした。俺の人生には、あなただけだったんですよ。……あなただけが、世界で俺を必要としてくれた。血の繋がった兄にさえ、俺を奪われたくないのだと言ってくれた。あの時の俺がどれだけ嬉しかったか分かりますか?」 「……」 「話が逸れましたね」  ずい、と雪彦が身を乗り出して顔を寄せてくる。身を引く暇はなく、息を呑んだ。 「あの日、口づけたのは——あなたが、今みたいに物欲しそうな顔をしていたからです」 「っ……もっ……」  ——なんだこれ。  ——雪彦に、告白されている。  やっとその事実を飲み込んだ秀の顔に、ぱっと紅葉が散った。  鼻と鼻の先が触れ合いそうな距離に、端正に整った不器用な男の顔がある。 「も、物ほしそうな顔なんて、してねーよ」 「しています。照れたような焦ったような。……ねえ秀さん、よく分からないけど、俺の事、別に嫌いじゃない、ってことで合ってますか? それとも、これも俺の思い違いでしたか」  秀は雪彦から視線を逸らし、小さく首を横に振る。視界の端で「どっちなんですか」と雪彦が苦笑交じりに呟いた。 「嫌いじゃない。嫌いなわけないだろ……。俺はさ、お前の方がデキるヤツだから、俺なんかの言うこときくのが可哀想で、俺自身もなんかみじめで腹が立って……その、高校の頃とか、いじめみたいなひどいことしたの、謝る。ごめん」  ただ悪意を否定しただけなのに、変に胸が高鳴って煩い。まるで、告白に返事をしたみたいだ。 「いじめ……ああ、そういうプレイだと思っていたので、何も問題ありません。……ねえ秀さん、秀さんは、俺のことをどう思っていますか。この反応は、自惚れても良いんですか?」  なんだかものすごいセリフが吐き出されている気がするが、理解が追い付かない。  ともかく雪彦は――相当自分のことが好きらしいということだけは、伝わった。 「ねえってば」  ひとつ瞬いた雪彦の瞳が、濡れたナイフのような危うい輝きを放つ。秀は何度か口を開いたり閉じたりを繰り返し、必死に言葉を探して、自問を繰り返した。 「……——その」  嫌いじゃない。けれど、この感情は『好き』の一言で片付くほど綺麗で、単純なものではない。憧憬や敬愛にひがみや劣等感がまとわりついて形を変えた、執着や依存などと呼ばれるものではないか、と思う。 「分からない……けど、お前なら嫌じゃ、ない……と思う。色々、あの時の、キスとかそういう意味なら……たぶん、分かってたらお前から逃げたりしなかったし」 「本当に?」  落胆を滲ませた雪彦の表情が、瞬時に明るさを取り戻す。  ——ああ、こいつ、こんなに分かりやすいヤツだったんだな。  思えば卑屈な感情を抱えて雪彦を避けるようになってから、彼の顔を直視出来なくなっていた。彼を不愛想にしたのは、勝手にそう思い込んでいたのは、秀だった。

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