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【2020/05 教育】⑲
「大丈夫じゃないのもう十分わかってるでしょ、先生は狡いです」
欲情と、それを凌ぐ憤りで体が震える。身を近づけて、耳元で先生が何か囁こうとしたのを、肩を掴んで制した。
「おれはもともと狡い人間だよ。何も返してあげられないって言ったでしょ、諦めて職務に集中してくれ」
ロッカーを閉じて施錠すると、出口に向かって歩いきながら先生は言った。
「長谷くんさ、実習入る前に2回でも3回でも抜いて正気取り戻した方がいいよ。君、性欲と好意と釣橋効果の区別つかないタイプでしょ、ダメだよ、大人なのに」
先生が退出して扉が閉じたあと、おれは発作的にロッカーの扉に頭を打ち付けた。わかってて弄んでたのかと思うと単純に腹が立って、涙が出た。
反面、何故そんなに周りの人が藤川先生と深く関わらないよう言うのか、本人が自ら関わらないよう言うのか、わかる気もした。実際、こんなふうに人を弄んで振り回すタイプはよくない。諦めたほうがいいのだろう。
おれは性欲を徒に刺激されただけ。
弄ばれた緊張感を好意と履き違えただけ。
このまま藤川先生の下で平静を装って最後までやり切れる自信がない。
性欲と好意を区別できないバカのおれには性欲とか好意が生じたら完全に圧し殺して生きるしか道はない。改めて思い知った。もう、間違えてはいけない。
おれは、誰からも選ばれないと思って、ひとりで生きたほうがいい。
今からでも見学先を変えさせてもらえないだろうか。多摩のキャンパスにいる別な先生にしてもらうか、別な大学を紹介してもらうか、できないだろうか。
なんで飯野さんが此処に行くように指示したかはわかっている、先生が行政司法の両方で顔が利き手続きも慣れているからだ。
但、飯野さんが言ってた意味も存分すぎるほどわかった。でも、飯野さんは何故先生の悪癖を知っているんだろう。一度確かめないと腹の虫がおさまらない。
でも、今はだめだ。目の前のやるべきことに集中しないと、
解剖室に行くと、履修生が複数人ずつ班になり待機していた。
藤川先生は先にロッカールームを出たはずなのに、まだ来ていない。
壁のホワイトボードには、各臓器名と重さや内容物などを記載する表が印字されていて、それは各班の解剖台の上にそれぞれ掛かっていた。そして教卓には滅菌済と思われるクリアファイルに死体検案書、即ち死亡診断書となるものと、既に作成されたそれらのコピーが用意してある。
これは書式こそ同じだが、通常の死亡診断書とは異なり、立会する警察官の署名が必要となる。これがないと死亡届は出せず、火葬手続きもできない。
これに加え、身元の解明を行なった場合には死体調査等記録書という書面の作成が必要となる。医師や説明を担当した警察官が内容を記載して提出する必要がある。
造影を行なったり、内容物や微物の検査を行い、その結果次第では解剖までに時間がかかってしまい、死亡届提出がギリギリになることも少なくないと先生は言っていた。
監察医務院で詳しく書き方や記述内容、検査結果の読み方、判断の仕方について説明をしていたので、今回おそらくその手順を実際におれにやらせるのだろう。
あんな遣り取りをした後でも、おれは何かあった時には先生に頼るしかない。できるだけ、平静を装って。
先生も学生の手前、おれを弄んだり振り回すような言動はしないはずだ。
それでも懸念は消えない。
あの華奢な体と、表情や声、痕の残る膚を意識せずいられるだろうか。
再びあのような振る舞いに接したとき、おれはまともでいられるだろうか。
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