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【2020/05 教育】⑳
「藤川先生きた」
誰かが言った瞬間、室内が一気に鎮まった。
姿を現した先生は隠せる痕はできる限り化粧で隠して、明らかな打痕や拘束痕がある箇所は手当をした状態で入ってきた。
「今回は既に剖検が終わって引き渡すご遺体です。すべて記録や書類の作成も済んでいるのでそのコピーを参照しながら実際にどのような状態だったか、遺体を実際の調書や検案書を読みながら実際に見てもらいます。どのような手続きがあるか、書類の作成についても説明します。ご遺体を運ぶので体力がある人はついて来てください」
数名の学生が立ち上がり先生について部屋を出る。
「長谷くんも先日監察医務院で説明したときのと私が持ってきたのを参考に、実際の書面作成とか手続きの流れを練習してもらいます、不明点があればわたしに確認ください」
淡々と伝え、再び部屋を出て行った。
先生が置いていった書類の束が気になり、そっと見る。
藤川先生が対応したもので、記載された時刻は月曜日の深夜。あのあと残って解剖を行なっていた。小曽川さんに「今日は、だよ」と言って帰らせていたが、やはり定時で帰ることなんて普段無いんだなと思った。
読みながら脳内でシミュレートしていると、
「藤川先生また怪我してんね」
「なんか習い事でもやってんじゃないの」
「でも、そういうキャラでもなくない?」
小声で学生たちが会話している中から噂するのが聞こえた。
まだ前期でなのに、ほぼ毎週顔を合わせる学生も多いため既に一部の生徒から不自然に怪我が多いと思われている。毎年このような状況なのだろうか。
ストレッチャーに載せられた納体袋が運ばれてくる。
戻ってきた先生から声をかけられ、一旦廊下に出た。
「急にごめん、おれ清潔操作とか、入退室について全然説明していないと思って。今、手に傷がついてるとことか怪我してるとこない?」
「特にはないです、怪我だったら先生のほうがよっぽど心配されてますよ、生徒さんに」
「は、なんで!?」
気を遣って声を小さくして伝えたのに、割と大きな声で反応したので思わず笑ってしまった。
「はは、なんでって、そりゃ頻度が多いからじゃないんですか、自覚ないんですか?」
「おれの状態なんか気にする必要ないじゃん…てか今は清潔操作についてちゃんと説明したいからそういうの後にしてよ…」
人のことは目敏く察して、反応を先読んで意地悪く振る舞うくせに、自分のことは自覚してないのか。この人、法医学者である前に心理学者だったはずなんだけど、あまり自己認識とか自意識って関係ないのかな。
先生からはユニバーサル・プレコーションという概念、清潔/不潔の概念について、清潔操作3種、使用する衣類や装具の着脱について、スクラブ法とラビング法の実施手順についてとそれぞれ説明があり、手順を習った。
手術室と同様に解剖室とロッカールームの間に専用の手洗い場があること、ご遺体を扱った後も、手術時同様すべての体液・排泄物・分泌物は感染源と見做し、洗浄消毒を行うためにシャワールームがあることも改めて説明があった。
「まだ乾燥する季節だから、保湿気をつけないと手ぇガッサガサになるよ。みんなまだ若いからそんな気にしないだろうけど顔首手なんか乾燥したとこから覿面老けるから気を付けたほういいよ」
スクラブ法では手は肘から5cmのところまで順に細部も意識して各部1分ほどかけて消毒入りの液体ハンドソープで洗い、流すときも肘から。ペーパータオルで水分を完全に取り去る。
ラビング法では水は使わずべンザルコニウム配合の消毒用アルコールで同じ範囲をしっかり濡らし15秒間消毒。
今回は両方行なった。
水分や油分が容赦なく奪われて手の皮膚が突っ張る感じがする。これを徹底して日に何度となく行うのであればそりゃあケアしなければ荒れるだろう。
「今後はできればうちの部屋出入りするときも手洗い消毒うがいは実施してほしい、最初慣れないかもだけど」
「わかりました。先生、なんか手荒れ対策してます?」
「ドンキ専売のボディローションでかいポンプのやつロッカーに入れてある、あと尿素入りの薬用ハンドクリームもプロペト(白色ワセリン)置いてあるか」
意外な単語が出た。
「あの、失礼かもしれないですが、先生、ドンキとか行くんですね…」
「長谷くん、おれのことなんだと思ってんの?」
他愛もないことを話すうち、さっきあった出来事を忘れるまでいかなくとも、懸念や警戒心が薄れて少し気が軽くなった。
但、自分を制するために先生の体や顔を直視しないよう注意をはらう必要はあって、でも完全に視界から排除することはできなくて、指先や横顔が見えるたび、胸が苦しくて堪らなかった。
「戻ろう、実習にかけられる時間が減ってしまう」
幸い、授業が始まってしまえばそんな気持ちは直ぐに紛れた。
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