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【1989/05 Salvation】⑪
クリニックの入口の横の扉から入るとインターホンがあって、アキくんは部屋番号と呼び出しボタンを押した。お父さんの声で応答があり、アキくんが「ただいまぁ、あけてー」と言うとエレベーターホールの鍵が解除された。
エレベーターで最上階を選択して、下りて道路側に面した部屋がアキくんのおうちだった。ドア横のインターホンを改めて押すと、お父さんが出迎えた。アキくんは隙かさずお父さんに抱きついてキスした。
また胸の奥で何かモヤっとしたものが湧き上がる。でもそれが何なのか、うまく言い表す言葉が見つからない。表現できない。ぼうっとその様子を見つめていると、アキくんの背後に居たおれと、お父さんの目が合った。
「あれ、わざわざアキくん送ってきてくれたの?ごめんねえ」
「はい、あの、それが、アキくんがウチ行こうってきかなくて」
話しているとそこにアキくんが割って入る。
「お父さん!大変なの、ハルくんちのでんきこわれた!」
「えっ?」
「こ、こわれたというか、あの、その」
説明に困ってしどろもどろになっているおれを見て、お父さんは、何か察した様子でアキくんに言った。
「わかった。何とかするから、とりあえず診察が終わるまでうちで一緒に遊んでなさい。ぼくもお母さんも午後の診療始まるし、もう行かないとだから」
そのとき、廊下の奥の扉から女性が出てきた。肩のやや下くらいまで伸ばしたゆるいカールの入った髪を後ろに束ねて、全体をシンプルに紺色でコーディネイトしている。おそらくこの人が、アキくんのお母さんだろう。おれの姿を見て、驚いている。
「アキくん、お友達が出来たの?」
言葉こそ発さないけど、アキくんは満面の笑顔でなんでも首を縦に振った。お母さんも嬉しそうだ。話せない、接触は出来ないみたいだけど、お母さんのことは流石にそこまで警戒していないというか、意思疎通はちゃんと出来ているっぽい。
アキくんのお母さんはおれの方を見て「来てくれてありがとう、わたしたち仕事柄遅くなるかもしれないから、気にせずゆっくりしていってね」と微笑んだ。
二人が出ていくのを見送って、アキくんはおれを家に上げて施錠した。洗面所に連れて行かれ、手を洗うように言われて一緒に洗ってから廊下の奥のリビングダイニングに向かった。
アキくんちはシンプルな2DKで、カウンターキッチンがついたリビングダイニングに和室、玄関入ってすぐにあるアキくんの個室、洗面所やお風呂やトイレという非常にこじんまりとした物件だった。しかもこのビルは新築ではない。リフォームで以前よりはきれいにはなっているが前からあるビルだ。
でも実際、この界隈だと一軒家も小さくて、建蔽率を考えたら同じくらいの間取りしか結局は取れないし、中古マンション買ったほうが賢いのかもしれない。クリニックを下で開業していて行き来できるという点、駅から近いという利点も考えたらものすごくいい条件だと思う。
そして、アキくんちは家の中もシンプルで、あまりごちゃごちゃしていない。無駄に凝った高そうなものや洒落たものはなくて、アキくんのものと思われるゲーム機やゲームソフトがテレビの前にちょっとあって、テレビの前のローテーブルの上にアキくんのものと思われる通信教材や参考書やペン立てがそのまま置いてある。
ダイニングテーブルにはお父さんが読んだと思われる難しそうな本や新聞、今日のおやつと思われるクッキーの箱が置いてあった。
「ハルくん、ハルくん何して遊びたい?」
「寧ろ、普段アキくんは何をしてるの?」
ローテーブルの上の教材を指差してアキくんは笑う。
「勉強?」
「違うよ、おもしろいんだよ。添削でいい点取ると名前が載るし、点数が貯まるといろいろもらえるんだよ」
なあんだ、進研ゼミかなZ会かな?などと思い、よく家に届く広告漫画を思い出してちょっと笑った。しかし、おれは教材を見て、アキくんの顔を見て、もう一度教材を見た。高校用の教材、それも東大京大特講と書いてある。目が点になった。
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