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【1988/05 Erwachen des Frühlings】②

それでも、その子、アキくんは私の姿を認識するとぺこりと会釈してくれた。 「お外見てたね、お外になにかあるの?」 話しかけてみると、窓の向こう、下の方を指差している。部屋に入って近づいて一緒に覗いてみると、駐車場をキビキビと動き回り、車両を誘導している警備員の姿が見えた。ただそれをじっと見ていたようだ。アキくんの目は複数いるうちの一人の動きを見ている。一緒に見ていると、その人物だけ物凄く察しが良く、明らかに誘導が巧いのだ。 歩行器を頼っているとはいえ、ずっとその動きを立って見ていたということは、少し前まで寝たきりだったとは思えないほど回復してきている。確かにこれだけ背丈もあるとパニックを起こした時に女性スタッフでは手を焼くだろう。 わたしは、少し体を屈めて斜め右前方下から覗き込むようにしてながら話しかける。 「ねえアキくん、ぼく、田川先生と友達で他所の病院でお医者さんしてたんだけどお仕事なくなっちゃったから、来週からぼくがアキくんのお世話に来ようと思ってるんだけど、どうかな」 アキくんは不思議そうな顔でわたしを見た。 「なんでお仕事なくなったの?」 先ずは興味を持ってくれたことに安堵した。 「自分で新しい病院を作りたくなったからお勤めやめちゃったんだけど、でもまだ準備中で、なんにもないんだ」 無理やりな言い訳だったが、アキくんには面白かったのかちょっと含み笑いしている。 「何時から何時?何曜日くるの?」 「アキくんに必要なだけ、できるだけ居ようと思ってるよ」 そう伝えると、アキくんはベッドに備え付けられたテーブルに近づき、ノートを広げて名前を教えてほしいとわたしに鉛筆を差し出した。わたしはそこに自分の名前、藤川英一郎と記した。 「ありがとう」 そしてノートを閉じて表紙に書いている自分の名前を見せる。小さく筆圧が弱く、バランスも良くはないが、神経質そうな止めやはらいがきっちりした独特な字で、小高明優と書いてある。 「ぼくは、おだか、あきまさです。おねがいします」 アキくんは窶れた細い手を差し出して握手してくれた。わたしは週明けまた来ることを告げて部屋を出る。そして廊下でアキくんと話す友人をしばらく待った。やがて部屋を出てきた友人に伴われ病棟をあとにした。 一階に降り、外来も終わり人気のなくなった会計窓口前のベンチに腰を下ろす。友人が「スタッフに女性が多いからか普段はあんなじゃないんだ、来てもらってよかった」と洩らす。 「冷静で賢そうな子だね、安心したよ」 「でも、その分本心が見えない。それより、何せ事情が事情だし、フラッシュバックが起きるとひどい。詳しくは明日きみの家で話す。さくらさんにも宜しく」 車止めにタクシーが入ってきたのを確認して席を立った。背後から再び声がする。 「あんな、自然消滅を狙うような離れ方をしたのに、自分が困ったからといってまた利用するようなことをしてすまない」 私は振り返りもせず言葉を返す。 「いいんだ、もう過ぎたことだよ」 この頃既にわたしには妻が居て、彼にももう家庭があった。今更、元の鞘に収まりたいなどとは思ってはいない。 わたしは近くの私鉄の駅までタクシーで向かい、一旦新宿で降りたついで百貨店に寄り、頼まれていたパンや茶葉を買った。乗り換えが億劫なので大回りになるが丸ノ内線に乗って帰った。 帰宅すると建物の一階で開業している妻は診療を終えており、同じ建物内のマンションの一室で私を出迎えた。 「おかえりなさい、お遣いお願いしてたもの買えた?」 ひとっ風呂浴びたさっぱりした顔で、綿麻混のスタンドカラーのワンピースで出てきて百貨店の袋を覗く妻の姿にわたしは顔が緩む。 「無事買えたよ。田川が明日うちに担当する子の説明に来てくれる。きみにもよろしくって言ってた」 妻は紙袋を受け取ってニコニコしてキッチンに向かう。 「ありがと。で、今日はその子には会わなかったの?」 「会えたよ、すごく冷静できちんとした子だった。あんな事件に遭ったとは思えなかったよ。でも正直、厳しい案件だと思う」 そう告げると、妻は言った。 「大丈夫よ、あなたには私が居るもの」

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