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【2020/05 深度と濃度Ⅱ】②
立ち止まって、振り返らずに先生は「忘れたよ」と答えた。
それでいいと思う。こんなこと、忘れてしまったって仕方がない。いっそ忘れてしまったのは良かったのかもしれない。憶えていたとしたらあまりに残酷だ。絶対に叶うことのない、叶ってはいけない片思い。満たされてはならない、満たされるはずのなかった欲望がひととき満たされたこと。引き換えに一線を引いて、秘密を抱えたまま生活をともにするなんて。
もし仮に、事件が起きずにそのまま生活が続いていたとしても、それはそれで先生の心はどこかの段階で壊れてしまったんじゃないかと思う。或いは、今とは違う形で自分の身や立場を危険に晒したり、死に導かれるような生き方を選んでしまったんじゃないかと。
続けておれは呼びかけた。
「先生は、事件以前のこと、忘れてしまって良かったと思いますか。それとも、辛くても忘れなかったほうが良かったと思いますか」
先生は振り返って言った。
「全部忘れた、でも、思い出した、って言ったら?」
「…え…?」
おれは一瞬、何を言われたのかわからなくなった。記憶喪失で失った記憶って戻るものなのか?そんな話聞いたことがない。そもそも記憶を失った話自体、直接知る機会はそうそうない。だから勿論、記憶が蘇った話なんてもっと知らない。
「思い出した、というと語弊があるな。一旦全部忘れて、記録から情報としておれは過去の自分を知った。それはそれで話したとおり、事実だよ。但、事件に絡む処理が全て終わって、安全な生活が手に入ってから状況が変わった」
「状況が変わったって、何がですか」
先生はゆっくりとこちらに戻ってきて、おれが収納から出した押収品の箱の上に腰を下ろした。
「ふと目にしたものや耳にしたワード、匂いや音から、或いは夢の中から、思い出すというよりは当時のことが実感のある体験として蘇ってくるようになって、その現象に苛まれるようになった。所謂、フラッシュバックってやつだよ。おれは、そういったものから意識を逸らすために、勉強や研究に執着するようになったし、性的なことに耽溺するようになった。…長谷、それが今でも続いていると言ったら、お前どうする?」
どうって言われてもわからない。でも、その現象にはおれも心当たりがある。起きたとき必ず傍にいてあげられるとは限らないけど、聞き役になって受け止めてあげることくらいはできる気がする。
「それと、おれは碌に眠らない日だってあるし、お前以上に仕事のために家に帰らない日だって多いと思う。お前と暮らすようになってもハルくんとの関係はそのまま続けるし、表向き反社と関わるのやめますって言いつつも優明のことが片付くまでは関係切らないし、それ以外のとこにだってフラフラ行くと思うけど、それでもいいの?」
おれは浮かれて舞い上がってたけど、そもそも先生からしたらあくまでもセックスもできる同居人、程度なのかもしれない。おれは先生のこと好きだけど、先生はそういう感情はおれに対して持っていないのかもしれない。でも、それでも、おれは先生がおれを選んでくれた事自体が嬉しいし、家族のように思ってくれるなら、それはそれでいい。
「よくは、ないですけど…それが先生が必要なことなんだったら、おれは耐えます」
おれは顔を上げて、まっすぐに先生の目を見て言った。
先生は少し寂しそうに笑うと、おれに言った。
「ハルくんもさ、おれが同じ学校に通うことになって、じゃあ一緒に住もうってなったとき長谷と同じような感じだったんだよ。すげえ張り切ってさ。でも、ハルくんは耐えられなかったよ」
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