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【2020/05 潜伏】⑪
「もしかして、おれのこと忘れてる?」
「は?」
なんなんだ、馴れ馴れしいな。
おれはそいつの横をすり抜けてロッカーの荷物をとってジムを出て、向こうも走れる人間だったらついてくるかもしれないので走った。幸い追ってくる様子はなかったができるだけ速度を上げて、普段来ない五反田駅周辺まで出てしまった。流石に此処まで走って追って来やしないだろう。
西口側で一番評価が良いラブホテルに入り、こないだの店のウェブサイトでこないだのつばさという子が出勤しているか確認して、すぐに申し込んだ、…やってしまった。いくら週明けたら給料日とはいえ、もう今月完全にマイナスじゃないか。貯金に手を付けないと回らない。
しかも先生は謝ってくれたのに、おれは謝れなくて、謝れないまままた同じこと繰り返そうとしてる。最低すぎる。さっき浴びてきたばかりなのにむしゃくしゃして再びシャワーを浴びた。疲れが抜けきらないまま体を動かしたせいか再び眠くなってくる。
浴室を出て、つばさが来るまで寝て待つことにした。予約時間はもう少し後だ。しかも今回は最短のコース。サクッと抜いてもらって、帰ってまた寝る。代休ったって一日だけなんだから。明日の朝までには回復させて、ちゃんと起きてまた仕事しないとなんだから。
そう思って目を閉じてウトウトして始めたとき、さっきの男の言葉が脳裏を過った。わすれてる?忘れるって何を?おれは都内に越してからは仕事で知り合った人間と風俗利用する上で知り合った人間くらいしか知り合いは居ない。親しい人間関係は作らないようにしていたんだから。
じゃあそれ以前ってことになるけど、それ以前にしたって学校とか競技とか宗教に関わる範囲しか知り合いという知り合いも居ない、卒業後はその何れも関わりはない。だめだ、わからない。今更思い出したくもない。少しでも休んでおきたいのになんなんだ。苛立って眠れない。
仰向けに大の字になって深くゆっくりと呼吸を繰り返すうち、ようやく意識が薄れてくる。しかしその瞬間、さっきの男の顔が夢現の意識の中に蘇ってきた。そして思い出した。何故、さっきは思い出せなかったんだろう。
メガネやゴーグルはないし、筋肉も衰えて体型崩れてたし、髪は白髪混じりになっていたし、老け込んでいたけど、あれは。
「佐藤…さん…?」
嫌悪感と憎悪をもって脳内をかつてされた行為が侵食してくる。屈辱と羞恥と無力感で体の力が奪われるあの感じが蘇る。手足の感覚が薄れて痺れる。
そりゃあ学校は東京都のすぐ上の県だったし、職を失って、学校のあった地元に居づらくなって東京に出てきたって可能性はあるし、不自然なことじゃない。でもよりによって、なんでこんな近くにいるんだ。
いやだ、あのジムはもう行かない。早く新宿に引っ越したい。先生、早く帰ってきて。先生を裏切っておきながら、先生に助けを求めたくてたまらない。
ごめんなさい先生、でも、これが最後だから。本当に最後にするから。
まるで祈りを捧げるように先生を思っていると、フロントから呼出が鳴り「お連れ様がいらっしゃいました」と告げられた。
起き上がってまもなくノックする音がしたので、入口に向かいロックを解除して扉を開ける。
「フジカワ様、あの、先日に続いてありがとうございます」
はにかんで、照れて微笑みながらつばさが言った。
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