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【2020/05 冀求】⑪
綾子先生は、おれが心理学者だったことや、当初脳のダメージとかと記憶の研究を前提に神経精神科領域に居たのに病みすぎて追い出された経緯を前に話していたのを思い出したようだった。
「なるほどですねえ、どの段階でそれを知ったんだろうと思ってました。引き渡し対応したことありますけど、そういった場面に遭遇したことがなかったので。そういう、検死結果としては結果的に災害死だけど実際はそうではなかった場合というのは、これまでの統計には上がってないということになりますよね」
「まあ、上がってないだろうね。遺族本人がそう言ってても実際に状況的には仕方がなかったことだってあるだろうし。…もしかしたら長谷そういう場合その後どう処理してんのか知ってるかもしれないな…」
おれのつぶやきに反応する。
「長谷さんって、どちらの先生?」
そこで何故かおれよりも早く小林さんが答える。
「先生じゃなくて、藤川くんの新しい彼氏だそうです」
「藤川先生ってそういうのオープンですよね…」
自分で言うのは平気だけど、人から言われると妙に恥ずかしい。
「隠してもしょうがないからね。てか、おれこの件終わったらどうなるかわかんないな…綾子先生も知ってんでしょ発砲事件のこと」
「発砲事件というか、その火種になったと思われることだってこの界隈の人間だったら薄っすら知ってますよ。どうするんですかこれから」
これからのこととか、あんまり考えたくないな。長谷と暮らすのは楽しみだけど、いろんなことが一気に変わってしまうだろうし。研究でどっか出入りするにしても、何処行っても嫌がられそうだし。
「これで禊が済んだとしてもらえるのか、このままフェイドアウトしてくれって言われるのかわかんないけど、戻るまでにカタがついてなかったら辞めたほうが無難だろうなあとは思ってんだよね。居心地悪いだろうし。辞めても家業の裏方仕事はあるから食うのは困らないからさ」
「そんなあ、それはそれでこの業界にとっちゃ損失ですよ。只でさえ万年人手不足なのに」
嘆く綾子先生をよそに、話している横からそっと小林さんがメモを見せてくる。
歯牙鑑定についてと書いてあり、通常の身元調査が必要なご遺体と異なる注意して見る点はあるか。歯科チームに引き継ぐにあたり記録で注意点はあるか等の箇条書きが並んでいる。
「わかった、ちょっと説明する。すみません綾子先生一旦失礼します。てかおれ、大学辞めたとしても呼んでくれたら対応しますよ、別に医師免許返上するわけじゃないですから」
一言侘びて席を立ち、歯科チームの書類があるところに小林さんを伴って向かう。
「そうなんだよ、あのテキストやアレ基準の書面だと正直足りないんだよ、情報が。デンタルチャートもらって詳しく書かないと」
重ねてある簡易なプラスチックのトレイから、デンタルチャートを確認ポイントを書き込めるよう何枚か取る。
歯牙そのものの状態の他に、口蓋骨縫合切歯縫合の状態、歯槽骨の状態、下顎角、う蝕、修復状態、咬耗の状態、歯髄腔など、普段も外観で判別できなくなり身元調査が必要な場合のご遺体のときと同様に仔細に確認して引き継ぐ必要がある。
もともとこの仕事では、状態は良くとも、亡くなった場所がご自宅内や自家用車内であっても、病死や自然死とは違って「本当に亡くなったのは所有者や住民なのか」という点においては「多分そうだろう」みたいな思い込みは一切ヌキでやる。
災害の現場となると早期に居住空間で見つかったものでない限りは絶対に、濁流に流されたり崩落などに巻き込まれなかった状態であっても、必ず先ずは必要なデータを揃える。鑑別に時間がかかりすぎてもいけないが、何より最優先されるのは整合性だ。
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