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【2020/05 前へ】①
そのまま地下鉄の駅に向かい、交通機関を乗り継いで父のいる病院に向かう。
到着すると、予想はしていたけど時間が時間なので母は既に帰ったようだ。或いは、今日は来ていない。
ベッドを囲むカーテンの隙間から覗くと父は眠っていた。とりあえず中に入って備え付けの椅子に腰を下ろす。
丁度夕食の時間だったので流動食の入ったイルリガードルが下がっている。
暫くすると空になったそれと薬の入ったものを交換しに看護師が来て、今日はリハビリ頑張ったので疲れているとか、最近の体調だとか話しながらバイタルもとっていった。
話し声で父は目を覚まして、おれが来ている事自体に驚きつつ、その途中から起きて遣り取りを聞いていた。
看護師が部屋を出てから話しかけてみる。
「急に一人で来たからびっくりした?」
顔や首の筋肉が硬直して表情や言葉が思うように出ないので、動かせる範囲で小さく頷く。
「…お母さんから、なんか話聞いた?おれのこと」
そう言うと、硬直しているはずの顔の筋肉が動き、元気だった頃のように笑いを堪えているかのような含み笑いをした。
「え、何話してたの?」
微かに唇が動いて、囁くより小さな掠れた声で「やらかしたって」と言ってずっと含み笑いしている。
「やらかしたって、まあそうなんだけどひどくない?」
多分、今までも色々あったから多少のことでは「またか~」くらいに思ってるとは思うんだけど。
失職の危機だったのに。だとしても、最悪でも法人の理事としての仕事は残るから深刻に思ってないのかも。
「まあ、幸い最悪の事態は脱したから。あと、大きい賞もらったからチェコに授賞式で行って、公演もしてくるよ。それの関係で法医心理学講座を開くかも。それと、自分の娘というか、小曽川さんとこの優明さんが結婚するんだけど、南が顔合わせに出てほしいって言ってて、気が乗らなかったけど応じることにしたよ」
父は報告のひとつひとつを頷きながら聞いて、最後に「全うしなさい」とだけ言った。
長いセンテンスを話せるほどの自由は利かない状態での精一杯の言葉だ。
「今日報告したかったことは以上。このあとお母さんとこにも一旦報告に寄ってく。じゃあ、また進捗報告に来るから」
筋肉が萎え、栄養吸収も悪くなって窶れて細くなった手をそっと握った。少しずつ指が動き、弱々しいながらしっかりとおれの手を握り返す。
おれの目を見つめて掠れた声で「待ってる」と言ったその時、目から溢れた涙が頬を滑り落ちた。
「なんで泣いてるの?だめだよ、おれがもっと立派になるまで生きててくれないと」
テレビ台と一体になったキャビネットの上からティッシュを一枚引き抜いてその涙を拭う。
「そう、あと、同居人ができたから、今度紹介するから、せめてそれまで待ってて」
もう一度涙を拭って、そっと手を引き抜いて、病室を後にした。
玄関前の車止めでタクシーを拾って母の住まいに向かう。
車中から「今から寄っていい?」メッセージを送る。
「いいけど、いきなりだから何も用意してないよ」
まあそれはそうだよね。
「どうぞお構いなく」
短く返信して車窓を眺めた。ロードサイド型の飲食店や大型小売店舗の灯りが点々と続く。
何もかも失って、気がついたらびっしりとビルが立ち並ぶ環境に暮らすことになっていたし、それ以前のことはあまり憶えていない。だから郷愁のようなものと自分は無縁だと思っていた。
でも、繰り返し通ったキャンパスのあるこの付近の景色の中に「義理の」ではあるけど、それぞれバラバラだけど、自分の両親が住んでいる。
此処で生まれ育ったわけではなくても、なんとなく【戻ってくる場所のような感じ】が自分の中で浸透しつつあるような気がした。
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