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【2020/05 前へ】②
《第5週 水曜日 夜》
母の住むマンション形サービス付き高齢者住宅に到着する頃にはすっかり日は暮れて周囲は道路沿いの街頭の灯りや信号機のほか目立つものはない状態だった。
エントランスで常駐の職員と軽く会釈を交わす。本当なら訪問先を確認するルールになっているけど、運営母体の役員だから今まで特に呼び止められたことはない。
エレベーターで上がり、部屋扉の横のインターホンを鳴らす。暫くして足音が近づいてきて扉が開いた。
「やーだ、来るならもっと早く言ってくれたらいいのに。わたしが出かけてたらどうするつもりだったの?」
「はは、そしたらまあ諦めて帰るさ」
暖かい日が多くなりつつあるこの時期には些か暑苦しい毛足の長いふかふかの部屋履きを履いて奥に進む。
晩酌の最中だったらしく、食卓に缶ビールと手羽中の唐揚げがあった。
「あれ?何も用意してないって言ってたじゃん」
「来るとわかってたら晩御飯こんな骨付き肉にしてなかったのに、ってこと」
冷蔵庫の脇のラックから食品用ラップを持ってきて手早くかけ、戸棚に片付けに戻る。
「そこまで気を使わなくていいのに、今はそれなりに耐性はあるし。何味で作ったの?」
「今まで作ったことないからいろいろ。名古屋の手羽先風とバルサミコ風味とハニーマスタードとヤンニョムチキン風で作ってみたの、今度行くから作ってってハルくんにリクエストされたから試作品ね。それより、今日はなんの…あ~!」
飲みかけのビールを勝手に拝借したら慌てて飛んできて、おれの手から缶を取り上げる。
「もう、あんまり肝臓腎臓良くないんだからやめなさい」
「えぇ~…半年毎の経過観察で済んでるのに」
嘘。本当は、1シーズンに一回は来いと言われているが行っていないだけだ。
しかも親元に居た頃とかハルくんと一緒に暮らしていた頃は良くなっていたのに、また離れて暮らすようになって食事をかなりなおざりにする生活をしていたから着実に悪くなっている。
長い時間立って作業したり机に向かっていると浮腫で足の裏や脛がきつく感じるし、ひどく疲れて横になることも増えた。
来ないことを見越して80日単位で処方出してくれているのと、食事回数が少ないことで服薬回数も少ないから半年毎で薬も間に合ってしまう。
徐々に悪化しているがあまり極端な数値の変動はないのでそのまま半年毎になった。
「ところで、今日はなんの御用?…って言おうとしたの」
おれから奪い返した缶を傾けて残り数口を飲み干して、缶を潰しながら言う。
「ああ、うん、一応無事首が繋がって後期から通常営業に戻るからその報告にと思って。監察医務院の非常勤と講師は辞めるつもりだったけどそっちも遺留されてるから来年度復帰するかも…なんだけど…」
「けど、何?」
「こないだ大きい賞もらった関係で、それで…次年度から新しく法医心理学講座を開く計画を見立センセ…名誉教授が出したみたいで…しかもそれで古巣にも営業かけに行ったらしくて…もうどうなるかわかんなくなってきた…」
話しているうちに、段々自分が困っている実感が出てきた。
「いくつ草鞋履くつもりなの」
「わかんない…どうしよう」
一旦母が席を立ち、台所にある分別できるゴミ箱に空き缶を捨てて、氷を入れたグラスをふたつ手に戻ってくる。食卓傍のワゴンに置いてあるペットボトルの水をそれぞれに注いで片方をおれの前に置く。
「最悪働かなくたって食べていけるのに、ハルくんにせよアキくんにせよ、うちの子はよく働くこと」
「それはお母さんだって一緒じゃない、完全引退してないんだから。似ちゃったんだよ」
母は「血も繋がってないのにねえ」と笑う。
「それはそうなんだけどさ」
おれも笑って冷えた水を一口流し込んだ。
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