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第27話
「そう言えば、どうして職員室に行くのに二階を通るんですか」
利休先輩は二年一組になんら用事はなかったようだ。ちょっといぶかしく思い、それが率直な軽口になってしまった。
先輩の気配が凍る。
「それは……」
「あ、あれ、どうしました」
しまった。
なにか間違ったようだと俺の頭の中で危険信号が点滅する。
先輩は怯えた目で俺を見た。
「三年生には怖い人がいるから……、だから僕は一階は通れないんだ」
くぐもった声で答えられて、それが示す深い意味合いに息を飲む。
「す、すいません」
失敗した。
「いやなこと突っ込んじまってすいません」
先輩は上級生にいじめを受けていたのだった。今でも委縮している。
だから三年生の教室を避けていたのだ。
調子に乗った俺はそのことをすっかり失念し、先輩の繊細な気持にまったく気が付いていなかった。平身低頭で謝る
「すんません。俺ほんと考えなしで……」
「ううん、いいんだ」
「いいことないですよ。ごめんなさい。俺のこと叱ってください」
俺は馬鹿だ。大事な人を傷つけるなんて。迂闊にもほどがある。
しょげかえっている俺を、先輩は静かな声で励ましてくれる。これじゃ立場が逆じゃないか。
「そんなこと出来ないよ。君は悪くないもの。もう謝らないで」
「けど」
大切な先輩を不快にさせてしまったのは事実だった。海よりも深く恐縮する。
「いいんだって。僕が弱いだけだから」
そして先輩は諦めたように視線を逸らした。
俺はそこでハッとなった。
「先輩。先輩はちっとも悪くないし弱くもないです。悪いのはいじめをした奴らのほうだ」
そこを間違えてはいけない。
どうしたって、いじめたほうが悪いに決まってる。
いじめられる理由のある人間なんているものか。
俺は先輩の手をギュッと握りしめた。
「ただ、一つだけ。先輩は自分を弱いって言う。自分で自分を貶めている。それは悪いことです。する必要のないことだ。先輩は堂々としてていい。卑屈になることなんかないんだ。いじめは、いじめをした奴が悪い。いじめられたほうにいったいなんの非があるっていうんだ」
俺は心底腹が立って憤っていた。
先輩はじっと固まって俺の言葉を反芻している。
「それに、今後何かあっても俺が守りますから」
俺は先ほどの妄想や思い入れを鮮やかに思い出していた。
どんどん気持ちが溢れてくる。
「那須くん……」
「腕力だって根性だってたくさんあります。俺、頭はあんまよくないけど腕っぷしは強いから、いじめをするようなろくでもない奴らみんなのしてやりますよ。先輩を傷つけるような奴は許しません。根本的にいじめなんてさせません。俺が先輩を守ります」
熱くなって言い募る俺に向けて、先輩は小さな声を発した。
「那須くん」
「はい」
「あのね……」
そこで少し言いよどむ。
続きの言葉を俺は緊張して待った。
「お願いがあるんだ。少し、聞いてもらってもいいかな」
それから、大きく一度深呼吸して先輩は言葉を押し出す。
「僕は今でも怯えてる。いろいろされたけど、一番ひどかったのは、三年生の教室で夕方にいじめられた時のことだよ。相手は三人いて、僕は突き倒されて床にうつ伏せに転がった。頭を足で踏みつけられて手も抑えられて、動けなくて……」
その体験を思い出したのか、先輩は眼で分かるほどぶるっと震える。
「学生ズボンを後ろから引きずり下ろされてお尻に『デブ』『ゲイ』ってマジックで大きく書かれて、その無様な格好を写真に撮られた」
「先輩……」
「その後、僕のお尻を見て変な気分になったって、一人が『犯っちまおうか』って言ったんだ。恐怖で僕は歯の根が合わなくなった」
それでどうなったんだ。俺の頭はグルグルと回る。
「そのとき他の一人が言った。『やめろよ。そんなことしたらお前もゲイになっちまうぜ』って。それで最悪の事態は免れた」
先輩は苦し気に息を継いだ。泣き出しそうだ。
「後で、その時の写真を見せられて、みんなに晒してやるって脅されて……。やめて欲しかったらお金を持って来いって……」
いよいよもって卑劣な奴らだ。俺の鼻息は怒りで荒くなる。
そこで声を詰まらせ、先輩はほろりと涙を零した。
ああまただ。
どうして俺は先輩を泣かせてばっかりなんだろう。
感じさせての涙なら構わないが、こういう痛い涙は歓迎出来ない。
「それで、お金はどうしたんですか」
「十万円なんて大金どうしたって用意できなくて、待って欲しいって頼んだんだけど……、結局画像はみんなの眼に触れることになった」
悲しさと悔しさの混ざった無念の表情。涙は止まらない。
「いったん出回ったものは消すことが出来ないから、探せばそのまま晒されてるよ。那須くんも見たいなら今だって見れる。僕のいじめ写真なんて見る価値もないけど……」
少し自虐的な言い方になるのも仕方ないのかもしれなかった。
俺は反省する。
先輩の傷を俺がもっと広げてしまったのではないか。
守るなんて気持ちだけで、実際には俺は浅はかすぎた。
反省なんて言葉では済まされないミスだ。
「すいませんでした。俺、気が利かなくて、迂闊で、ずさんで。それと、嫌なこと話させてごめんなさい」
「ううん。聞いてもらってよかったかもしれない。抱えてるの辛かったから。でも不思議。どうして僕、那須くんにはなんでも話せちゃうんだろ」
先輩は肩の荷が降りたようなすっきりとした顔をしている。無理をしている訳ではない。
涙の後が光ってはいるが、すがすがしい笑顔だった。
俺はホッとする。
「君の言う通り、自分で自分を貶めるのは悪いことだね。気をつけるよ。もっとしっかりしなくちゃ」
それから先輩は愛らしく眼をくるっと動かして雰囲気を変えた。
「でもちょっとだけ君に怒ってる。だから今度は僕から要望するよ」
頬を膨らませ怒った顔を作る。しかし発せられた言葉はいい意味で予想外だった。
「ここでもう一度、キスして」
「先輩」
「あのね。那須くんにキスしてもらえるととても幸せで、心があったかくなって、凄く落ち着くんだ。那須くんの言葉もキスも声も顔の表情も、僕の心に寄り添って僕を強くさせてくれる。だから……」
だからお願い。
かわいいおねだりに応えて俺はそっと唇を重ねる。
欲望優先ではなく、傷ついた心を癒すキス。気持ちを重ね合わせる慈しみのキス。
それはなんだか微妙に恥ずかしかったのだけれど、まるで神前でする誓いのキスのような清廉さだった。
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