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第36話

 夏休みは本当に楽しく過ごせた。  畑仕事の合間に先輩に教わって宿題もほぼこなしている。なにもかもが順調だ。  先輩とならなにをしていても楽しいし、もちろんラブラブイチャイチャの時間も充実していた。  行為にも慣れ、経験値も上がって先輩を怖がらせることもない。お互いに余裕が出来ていた。すべてがうまく回っている。  しかし非常に残念なことに、あと2日でそんな輝かしい日々も終わりだった。  それにここ数日先輩の様子が変だ。眼に見えて暗くなって来ている。 「このまま夏休みが終わらなければいいのに……」 「そうっすね」 「学校……行きたくないな」  俺のように勉強したくないという理由ではなかった  先輩は学校に行くことに怯えていたのだ。 「いじめはなくなったけど、まだ怖いんだ」  告白する口元から苦悶のため息が零れる。  視線をそっと下げ辛そうに続けた。 「逃げてちゃだめだよね。頑張らなきゃ」 「頑張らなくてもいいって言うじゃないですか。逃げていいって。学校なんか通わなくてもいいんだって。いろいろ選択できる世の中らしいですよ。無理しないでください」 「でも……負けたままでいたくない気持ちもあるんだ。僕はなにも悪くないんだ。だから堂々としてたい。でもこんなに怯えてちゃ難しいけど……」  苦悩の表情。 「一学期の終わりはけっこう頑張れたんだ。夏休みがあんまり楽しすぎて元の生活に戻るのが怖くなっちゃった。那須くんといるのが当たり前で、安心できて……。そういう最高過ぎる時間を持てたことで、かえって僕はだいぶ弱くなっちゃったみたいだ」  もちろん君のせいじゃないけど。そう続けて俺の心配を払拭してくれる。 「君と一緒にいるのが楽しくて、楽しすぎて、こんな日々がずっと続くならって欲張りになっちゃったんだ」 「欲張りになってもいいじゃないですか」  俺の必死の声を悲しそうな顔が受け止めた。 「学校、怖いよ」  眼が潤んでいる。 「利休先輩」 「みっともないね。情けないね。過去のこと思い出して泣くなんて……」  そしてぐっと唇を結んだ。 「仕方ないですよ、それだけ怖い目にあったんだから。今だって怖いんでしょう。先輩にとっていじめはまだ過去のことじゃないんだ。現在進行形なんだ。先輩は頑張ってる。色々なことを我慢してる。凄い忍耐力です。強いです。立派です」  本当に立派だ。俺なら逆切れして暴れてるかもしれない。 「でも、ほんとに登校出来るんですか」 「うん。そのつもりだよ。ここでくじけたらきっとそれっきりになっちゃうもの。完全に負けちゃうもの」  俺は思わず先輩の手を握っていた。  思った通り震えている。  励ますようにさすった。 「負けたくないけど、やっぱり怖いな」  心が揺れ動いているのが感じられる。 「部活は君と一緒にいられるから安心だけど……」  そこでふわりと綺麗で切ない微笑みを見せた。聖女のような神々しさだ。こんな純粋な存在をどうしていじめようなんて気になるのだろう。まったく歪んでいる。 「……俺、先輩の教室に顔を出してもいいですか」 「え」 「なるべく多く先輩の近くにいて、励ますし、守るし、変な奴が寄ってきたら跳ねのけますから」  提案しながら俺は思う。  本当にくやしい。  どうして俺は先輩と同じ年じゃないんだろう。  同じクラスだったらいつだって一緒にいられるのに。  嫌な奴らなんか寄せ付けないのに。  己の無力と運命とを悲観する。 「那須くん、そんな顔しないで。僕は平気だよ」 「平気じゃないです」 「大丈夫だってば」 「先輩もだけど、平気じゃないのは俺のほうもですっ」  先輩のことはもちろん心配だけど、それ以上に憤っている自分がいた。胸の奥に怒りの炎が灯っている。  情けないけど、俺はこの状況に打ちのめされている。無力感に傷ついていたのだ。 「那須くん」 「先輩のこと気が気じゃない。このままじゃ勉強なんて手につかない。先輩が心配で、大事で、好きすぎて、どうしていいか分からない」  さらに強く手を握る。 「利休先輩を守りたい。でも甘やかしちゃいけないと思う。これは先輩の戦いなんだ。だから先輩の心意気を応援したい。でもやっぱり心配だ」  思考がぐるぐる回っていた。  今度は先輩のかわいい手が俺の手をさすってくれる。 「僕が自分で解決しなくちゃいけないことなんだ。負けないよ。でも甘えさせて。那須くんには見守っていて欲しい。背中を押して欲しい。お願い。それだけでいいんだ。十分なんだよ」 「利休先輩」 「ありがとう。こんなにも僕の為に心を砕いてくれて。本当に君と出会えて良かったよ」  先輩は涙をこらえて感謝の言葉を紡ぐ。  俺のほうもぐっと来た。  少しの沈黙が落ちる。  やがて、まろやかな声がかわいくおねだりをしてきた。 「可能ならお昼休み会いに来てね。ごはんも一緒に食べよう」 「分かりましたっ」  俺は心の中で叫ぶ。  この人を助けるのだ。  守るのだ。  でもでしゃばりはしない。  距離を重んじる。  先輩の意志を尊重する。  先輩の再生する力を信じる。  俺は見守る。  そういうスタンスに立つのは難しいことだった。だがうまくこなして見せる。先輩の為にも。  利休先輩と出会ったことで、俺も男として少しは成長しているのかもしれなかった。

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