4 / 8

第4話

4 長い夜の果てに  誰もが口を閉ざし、長い間、部屋の中には時計の針の刻む音だけが響いていた。  開け放した窓からは、石畳の上をカラカラと進む馬車の音、そして外を守る男たちが何か話しながら発する笑い声が時おり聞こえてくる。  昨夜のように、すべての音が聞こえなくなる瞬間を待ったが、あと三十分で真夜中というタイミングになっても、まだ外界からの音は聞こえていた。  いや、聞こえるどころか、どうやら男たちは言い争いを始めたようだ。  音は明らかに格闘のそれとなり、「うっ!」「うあっ」、ドサッ、ガシャン!と人が倒れる音や鉄柵にぶつかる音が続く。  ウィルビーが、身構えた。  目つきが鋭くなり、急ぎ、何かの呪文を唱えようとした。  が、それを許さぬという勢いで、渦巻く風が窓から吹き込んだ。  いや、風ではない。人だ。突風を纏った人間が飛び込んで来た。 「間に合ったか?」  ぴたっ、と床に着地し、室内を見回してそう叫んだ人物は――  あのジジイ! 俺に「ふん、こんな奴か」とぬかした、あの……!  老人らしい地味めのスーツの上に、昔の修行僧のようなケープ付きのマントをまとっている。頑丈そうな長い木の杖をふりかざす姿は、まさに絵本の挿絵にある「魔法使い」を思わせる。 「こいつだ、俺を探していた奴は!」  俺が指差して叫ぶと、マーレイが椅子を振りかざして飛びかかろうとした。 「お前の相手をしている場合ではない」  ジジイは手のひらをマーレイに向け、何かの力を使って彼を後ろに弾き飛ばした。  ウィルビーに向き直って同じように力を使ったが、一瞬早くウィルビーはその場を跳び去っていた。   反撃に転じ、閃く光を放つ。ジジイはそれを呪文で霧散させる。  光と、煙と、風が、入り乱れてフラッシュのように目の前に展開するが、速すぎて何が起きているのか定かには理解できない。  その激しい嵐のような状態が、ひときわ大きな光に包まれた次の瞬間、晴れ始める煙の中でウィルビーがジジイを押さえつけ、右手に宿った雷光めいた電気を心臓にぶち込もうとしているのがわかった。 「やった!」  マーレイが勝利を確信して声をあげる。と、またしても窓から何かが飛び込んできた。  黒い影。だが、例の悪霊ではない。真っ黒な、犬?だ。全身真っ黒で、瞳だけが赤い。  犬はウィルビーの右手首に噛み付いて、バチバチいう閃光ごとジジイから引き離した。獣の毛が焦げるにおいが漂う。  ジジイは素早く起き上がると、ウィルビーを術で弾き飛ばした。 「うう……」  壁に激しくぶつかったウィルビーが呻く。  俺はテーブルの上にあったペーパーナイフを手にジジイに向き直った、が、黒い犬が両者の間に滑り込み、ぼうっと煙が上がったと思ったら……。  犬は黒装束の人間に姿を変えた。  どこかで見た奴だ。えっ、ホワイト・チャペルの安下宿で俺たちに魔術師の不在を告げた、あいつじゃないか。間違いない。  唖然とする俺をキリと見据えて、犬……だった男はこう言い放った。 「そいつは違う。マスターは、こちらだ」 「は?」 「ふん」  ジジイ、いや、マスターと呼ばれた老人は、俺を見下すように一瞥した後、言った。 「話は後だ」   しかし、遅かった。  もし俺がナイフを手に余計な反撃を企てなければ……、ほんの何秒かの違いで、ジジイは「それ」を阻止できたのかもしれなかった。  ウィルビーが立ち上がっていた。  ヒビの入った眼鏡の奥に燃える目は、もう好青年のそれではなかった。 「さすがだな、僕の呪縛を抜けたのか」 「ああ、お前さんが力を使って疲れた隙に、結界が緩んでな」 「なーんだ。真夜中を待って、いざその時間になったらジャジャーンって正体を明かそうと思ってたのになあ~。とんだ邪魔が入ったよ」  マーレイと俺が訳が分からぬまま見ているうち、ウィルビーがおもむろに口を大きく開けた。  そこから迸り出たのは、あの、黒い稲妻!   壁に、天井にぶつかって、黒い稲妻が激しい屈折を描く。と、すぐに一つに結束し、横たわるディーの胸元にまっすぐに打ち込まれた。反動で体が跳ね上がる。  その光景に叫び声も出せないまま、俺はディーに駆け寄っていた。 「やめろ!」  ジジイが叫んだのが聞こえた。  ウィルビーが何か詠唱しているのが見えた。その姿は、俺たちが知っている眼鏡の青年から、長い銀髪と、灰色がかった緑色の目をした、見たことのない男のそれに変わっていた。  詠唱によって、俺とディーの周りが明らかに歪み、どこかに引き込まれる感じに包まれた。  視野が狭まり、引き込まれる感覚の中に身体が埋もれていく。  俺が余計なことをしなければ、ジジイは間髪入れずに、こいつを仕留められたかもしれなかったのに。だが、後悔しても遅い。  ディーの身体にすがりつき、その温もりだけを確かに感じた。  ディー、ディー? そこにいるのか?   ディー!  真っ白な光。  目を開けると、真っ白な空間に俺とディーだけがいた。  発光しているような白だが、眩しさはない。床も、壁もなく、ただ白に包まれている、異空間。  ディーは低い呻きを漏らして、ゆっくりと身を起こした。 「よかった……、無事か、ディー」  無事、と言える状況ではないのだが、怪我や流血がないのは幸いだ。  よく見ると、着せていた寝巻きは下ばきだけとなり、ディーの上半身は均整のとれた逞しい裸身があらわとなっていた。  長い付き合いだ、あいつの着替えや、風呂上がりの姿を見たことがないわけじゃない。しかし、白い発光の中に浮かぶその身体は、いつにも増して……魅力的だった。  思わず目を反らしたが、ディーがすぐそばににじり寄ってきた。  ぽすっ、と頭を俺の肩に乗せて甘えるかのようにしたので、こいつも安心したんだなと思った。  が、顔を近くで見たとき、致命的な間違いを犯したことを悟った。  赤い獣の目が、息遣いが、そこにあった。  俺はすぐさま押し倒され、同時に喉や唇にむしゃぶりつかれた。 「うわっ!」  ディーの手が乱暴に俺の胸をまさぐる。   ディーは取り憑いた者由来の力によって、両手の指先に黒曜石のように黒く鋭い爪を出現させた。その邪悪な爪が乱暴に俺の服を切り刻み、瞬く間にぼろをまとった姿に変えた。 「や、やめろ!」  組み敷かれていないのに、身体の自由がきかない。何か術の影響下にあるようだ。  ディーは自らの下ばきも爪で切り裂き散らし、完全な裸身となった。  両手で俺の両足を開いて引き寄せ、その間に膝立ちでたたずむ姿に、俺はうっかりと、見惚れた。  今まさに俺を犯そうとしている目の前の男は、あまりに猛々しく、美しい。  微かに脈動しながら股間に屹立するものすら、その肉体と同様に端正なフォルムをしており、持ち主が、ぐふぅ、ぐうう……と荒い息を吐くたび扇情的にゆらりゆらりと揺れる。  目が……離せない。  触れたい衝動に駆られて、それに手を伸ばした。しかしその熱さを、硬さを、手のひらに感じることは叶わなかった。  太腿をグイッと引き寄せられると、覚悟もないままにいきなり、俺はディーを受け入れていた。 「うわあッ!」  貫いたものが持つ質量の大きさに圧倒され、思わず息が止まる。  やがてそれが俺の中を擦りあげながらずるりと引き出され、抜けるか、と思えた間際にまた勢いよくずぷりと納められた。その反動で、今度は思わず声が出る。 「うあっ!……ぅ、う、ああッ、あッ、ああ……」  何度も、何度も、何度も。  誰かのものを、こんなにも確かな存在感を持って受け入れたことなどない。  圧倒的な実感を伴って繰り返される重い動き。それがもたらすのは、頭を突き抜ける――恍惚感。  あ……ああ、こんなの……あぁ。 「ぐうぅ、ふ、ふぐぅ、うう」  ディーは己の高まりと共に獣めいた呼気を漏らし続けた。  身体をのけぞらせ、もっと深く、深く、深く、俺に入り込もうと腰を突き上げてくる。  突き立てられる、何という力強さ、逞しさ。  こんな悦いもの、俺の身体は知らない……。 「あ、あ、あ、あ、あッ」  声が出るばかりで、息を吸う暇がない。  これも魔力の影響か、丹念に慣らしたときのように難なくすべてを飲み込んだ俺の秘所は、ディーを締めつけ、ゆるめ、また搾り取るように締めつけて、を我知らず繰り返した。  両足を肩に担ぎ上げ、いっそう奥へ楔を打ち込むべく力強く腰を使うディーを、快感の涙でかすむ目で見つめる。悦い、すごく、悦い。でも、……怖い。  正気ではないディーも、もちろん怖い。白い空間の中で全身から薄っすらと黒いオーラを発しているのだから。でも、本当に怖いのは、この快感だ。  いつもなら、こんな力まかせに突き立てる野郎は軽蔑するが、今はただ、ただ、気持ちいい。  あ、ああ……、いい。いい。ああ、……達く、あ、あ、ん……ぅ。  のぼり詰めるにつれて、ディーの逞しい分身が俺の中でビクビクと呼応する。 「あ、ディー、ディー、あ、ああ、あっ……!」  先に達してしまったが、そこで終わってくれるはずもない。  獣のように四つん這いにされ、さらに激しく攻め立てられた。  大きく硬いものが容赦なく内壁を開いて奥へ奥へと進み、ズッ、と素早く引かれ、また奥へと打ち込まれる。そのたびにぶつかり合う肌と肌が、ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ、と淫らなリズムを刻む。  またいきなり、正常位に戻された。  萎えることを知らない肉杭が、無造作に打ち込まれる。  終わるのだろうか。  もしかしたら、このまま永遠にこの異空間で、犯られ続けるのではないだろうか。  動きが一段を激しさを増し、俺の達したばかりの敏感な下半身に気の狂いそうな快感が走る。 「うあっ」  中のものが、膨張したのを感じた。  動きは止まらない。  さらに激しく、強く、ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ……!  そして、唐突に、動きが止まる。 「ぐ、ぐあぁ、ぐうぅああああぁ!」  獣のような叫び声をあげてディーが、――――達した。  腹の中に、熱い迸り。いや、違う。熱い「何か」が、どんどん注ぎ込まれているのがわかる。  あ、ああああ、何か、その熱いもの自体がまた内部から快感を呼び起こしていく。  下腹から、腹へ、胸へ、頭へと、浸透するように広がっていく快感。……気絶しそうだ。  ああ、ぁ……。  ふうぅ、と人が大きく息を吐く音が聞こえた。  俺じゃない。では、誰だ。 「ジェイ……?」   思いがけず、聞き慣れた、いつも通りのディーの声を耳にして、我に返った。  覆いかぶさり俺を見つめているその顔は、いつもの穏やかなディーだ。  さっきとは違う涙が溢れ、思わずしがみつく。  夢……だったわけではない証拠に、周囲はまだ白い発光の中だし、何よりも目の前にはまだ、萎えないままの硬いモノが存在している。 「君を、こんな風に抱きたくはなかったな」  ディーが自嘲するように弱々しく微笑む。黒いオーラは消えていた。  正気に、戻ったのか?  聞こうとしたが、急に、声を出すのも面倒なほど身体がだるくなってきた。  ぐったりして目を閉じると、いつもの甘い声が、子守唄でも口ずさむように優しく語り始めた。  たったいま犯した相手に囁くにはあまりにも不釣り合いな、優しく甘い、想いの丈の吐露。 「初めて会った時に、私は君の、強い目に射すくめられたんだよ」  強い、けれど、〝弱くあってはいけない〟という強がりをも内包している、決意に満ちたまなざしだった、とディーは言う。  「己れの器量と才覚を武器に生き抜いてきた自分の昔を見るようだ、と思ったのも確かだが、そんな同情や安い共感ではない、もっと根本的な部分の……、いわば魂の共鳴みたいなものを感じたんだ。この子をどろどろに甘やかしたい。でも一方で、この崇高とも言えるまなざしの強さを奪う堕落は与えたくない。触れたい。崇めたい。犯したい。跪きたい。羽ばたかせたい。束縛したい。相反する想いを飼いならしながら、君のそばに居続けた」と。―――― 「私が君を不用意に汚すまいと葛藤しているうちに、君は思いの外あっという間に(性的に)大人になってしまったんだものねえ……」  あー……、なんか、すまん。 「嫉妬しないよう努めたが、我慢できなくなるとあからさまに邪魔もしたし、引き離すために君を連れ出したりもしていた」 「あれって、嫉妬だったのか」  思わずクスリと笑いが出た。 「そうさ。君はオレが、どんなに君のことで狂おしい目に遭っているか知らない。今まで、いったい何人に殺意を覚えたことか」  声をあげて笑ってしまった。 「ばかだな。……言えばよかったのに」 「そうだな。素直に、早く言っておけばよかった。オレは、君の前では信じられないくらい臆病だ。君を抱いて、二人の関係が変わってしまうのが、……怖かったのさ」  ディーの長い指が俺の脇腹を撫で上げ、胸の突起に触れる。敏感になっている乳首に指先が当たっただけで「……あン」と声が出た。  ディーはそこを舐めまわしならがら言う。 「いつか君は訊いたろ? なぜ君を抱かないのかって。私はね、君たちを孤児院から連れ出したことや、その後もあれこれ構ったことが、身体目当てだったと思われるのが嫌だったんだよ」 「なんだよ、それ」 「君が仕事を持って、大人になって、自信を持って、私と対等だと傲慢にも思えるようになったら、全身全霊で口説こうと思っていた」 「はは……、変なの。あ、ん……、やだ、そこばかり」  ディーは貪るような深い口づけを与えると、再びずっぷり俺の中に入ってきた。入ってさらに、膨らんでいくのを感じる。  ゆっくりと腰を引き、やがてもどかしいほどゆっくりと、ゆっくりと、押し戻してくる。  内壁に笠が引っかかる感触を味わわせるように静かに引いて、浅いところで何度か行き来する。 「あ、ディー……、それ……、あ」  たまらない。  繰り返すうち、また身体から黒いオーラがにじみ始めた。  やばい、また正気を失う?    だがディーは己れを失うまいと必死に葛藤し、その苦しげな表情の中から極上の笑顔を絞り出して、静かに囁いた。  「愛してる」   …………!  と、白い世界に歪みが生じ、灰色の靄が凝り固まったような腕が現れて、俺の肩をつかんだ。  再び絶頂を迎えようとしていた直前。俺はまた「引き込まれる感覚」に囚われた。  そして……  いやな汗にまみれて目を見開いたとき、俺はマーレイの屋敷のあの部屋に、あのときのままの服装で床に寝転び、皆んなの不安そうな顔に見下ろされていた。ああ、フロゥもいる。  ガバッと身を起こすと、部屋が一回転したくらいの目眩に襲われた。 「安静にしていろ」  と、俺の肩に手をかけて言ったのは、あのジジイだ。 「ガーランドが、あ、この人の名だけど、お前を異空間から取り戻してくれたんだよ」  マーレイが説明する。俺があっちにいる間に何かが進展したようだ。 「だが、少々遅かったな」  ジジイ……ガーランドが俺の中を探るような目で見て、言った。 「お前の中に、一つ分……いるな」 「ああ」 「えっ、ええっ! どういうこと?」  マーレイが声を上げたということは、あっちの世界での痴態を見られていたわけじゃないんだな。(よかった。一部始終見られていたとしたら、百回死ねる……)。  俺は正直に言った。 「真っ白な世界で、……ディーに抱かれた」 身体の内部が熱い。欲情の名残だけではなく、体内に蠢く存在を感じる。 「何回やった」 「ちょっと!」 「すまんな、しかし大事なことだ」  フロゥが複雑な笑顔をしながら離れて浮かんでいる。 「一回につき〝三つに分けられた悪魔〟の一つ分が注ぎ込まれるはずでな。三つとも注ぎ込まれたら、お前さんはすっかり悪魔の依り代ということになってしまう」 「ん、そういう意味なら……、一回だ」  生々しい話だが、誰も笑ったりしない。  二つ目を受け止める前に、こちらに引き戻された。そうだ、達く寸前で無理やり止められた。生殺しの具合いの悪さが、悪酔したときの吐き気のようにつきまとっている。 「ディーは!」    ガーランドが残念そうに首を振る。マーレイが目を伏せた。エッドも、フロゥも。 「お前を取り戻すので精一杯だった」  そうか。……と答えたつもりだったが、俺は消耗に身を任せて気を失ったらしい。目を覚まし、異空間にいた間こちらで起きていたことを知ったのは、翌日の昼過ぎだった。  要するに、「ウィルビーはまんまと逃げた」って話だ。 ガーランドは一刻を争う優先順位として、俺の救出に能力を使うべきと判断したのだ。 「改めて自己紹介するが、俺はガーランド・ヒエム。ディケンズとは古い友人。魔術師だ」  ひょろりと痩せて、特徴的な鉤鼻を持つ姿がそう言った。横にいる黒い服装の男はシキという名で、東洋の狗神?の一種だそうだ。余談だが、後にこいつは「一緒に寝ている」と言ったのは「犬の姿で添い寝」の意味だ、と舌を出しやがった。  俺やマーレイは、飛び込んできたウィルビーを「助けに来た魔術師」と信じ込んだ。ディーはすでに意識混濁だったし、数日前ガーランドを「見た」フロゥは、ウィルビーが彼女を遠ざけるため張った結界に阻まれて俺とコンタクトできなかった。  ウィルビーがディーを眠らせ続けたのは、苦しませないための情けではなく、その証言によって正体がバレないための画策だったらしい。  ガーランドによると、ウィルビーの術力には限界があり、何度もこまめに施術をメンテナンスしていたのもそのためだった。  奴が疲労し術が弱まった隙をついて、フロゥは俺に「ここを出て」と告げに現れ、ガーランドは自分を閉じ込めていた緊縛の術を振りほどいて駆けつけた、という。  ディーは、あの異空間に取り残されているか、あるいはウィルビーが保護しているだろう。正体がバレて小芝居の必要がない今となっては、すでに三つめの悪魔をディーに憑依させ終えているかもしれない。  準備万端、俺を手に入れるのを狙っている。 「おい、爺さん」 「ガーランドだ、小僧」 「訊きたいことは多いが何から訊いていいのかわからん」  「正直だな」  鼻で笑った後、ガーランドはおもむろに俺に頭を下げた。 「うわ、驚いた」 「すまん。お前たちを巻き込んだのは、俺の罪だ」 「どういう意味です、ガーランドさん」 「ウィルビーも同じようなことを言ってたな」  マーレイが、ウィルビーのした「弁明」をかいつまんで話すと、ガーランドが忌々しそうに舌打ちをした。 「悪魔も人を騙すためには時おり真実を言う。奴は、俺がディケンズを利用して奴をおびき出そうとしたことを、揶揄したんだ」  語られたことの中には大いに真実が盛り込まれていたのである。  ロンドンが今、凄い力が集まっている霊的スポットであることや、セックスで悪魔を依り代に憑依させること、そして、悪魔の器となっている者は想像を絶する痛みに苛まれること……。  〝三つに分けられた悪魔〟がロンドンに在りと突き止めたバチカンと白魔術師たちは、ガーランドに「処理」の指揮を託したのだという。 「あんた、そんなに凄い魔術師なのか」 「ウィルビーに押さえつけられて、犬ころに助けられてたけどな」 「黙れ。緊縛から逃れたばかりで調子が出なかったんだ」  多少の赤面をもって、ガーランドが話を続ける。 「とにかくだな、俺はロンドンに入って旧友ディケンズに会い、ちょうど新ネタを模索していたあいつに、あの物語を描きたくなるよう少々暗示をかけてだな。その上、読むべき者が読めば、〝お前がここにいることは知っている、観念しろ〟的なメッセージを感じ取れるよう、ある種の言霊を仕込んだのさ」  言霊?   俺は、ディーが湖水地方の一件の帰り、自分の文章が霊的な影響力を発揮すると困る的なことを言っていたのを思い出した。あのときはものの喩えだと思ったが、実際に文章には、というかディーの書く言葉には「力」があるのだろう。何者かを動かす鍵を内包できるほどに。  そういえば、魔術師たちの詠唱だって、霊力を言葉に乗せて武器とする「言葉の力」だな。 「で、奴が動き出すのを待った、と」 「ああ。で、そのうちに、緑の目の若者を探してる貴族がいるって噂を耳にしてな。これはウィルビーが依り代探しをしてるんだと思い、便乗して俺たちも、どんな色の目の人物がどこにいるのか把握しておこうということになった」 「俺の店に来てあんたが不躾を働いたのも、その一環か」 「いや、あれは、ディケンズが懸想している若造をちょっと見てやろうくらいの好奇心だ」  このジジイ……。 「しまった、と思ったのは、お前が緑の目だと知ったときさ。実際に会ってみたら、緑の瞳、強い霊力……! こりゃとんでもない奴を巻き込んだなと後悔した」 「後悔した態度じゃなかったろうが!」  さっくり無視してガーランドは続ける。 「お前さんは奴にとって願ってもない最高の依り代だ。悪魔にとってもそうだ。お前さんが死ねば、その容姿が己れのものになるんだからな、喜んで取り憑く」  俺が綺麗だと思ってはいるんだ。 「もともとディケンズは霊力が高くてな。作家なんてやれる奴はそういうもんだが。あいつの書いた小説が言霊を発動することを確信して利用させてもらったが、その想いびとに、まさかお前さんみたいのがいて、そのそばにマーレイ君みたいのもいるとは。ウィルビーの目の前にフルコースを用意してやったようなもんだ、最悪だと思ったよ」 「え、僕? なんで!?」  逆にガーランドが目を見開く。 「お前さん、気づいてないのか! 相当な霊力だが?」  皆がマーレイをガン見した。マーレイは素っ頓狂に声を上げる。 「えええー?」 「考えてもみろ、お前。こんな」  と、俺を親指でひょいと示し、 「こんな淫魔みたいなやつのそばに長くいて、何の影響も受けないなんてすげえだろうが」  エッドが噴き出す。  俺は、耐える。 ――やっぱり! ほかの人と感じる波長が違うとは思ってたの。  確かに、目の前で顔を赤くして戸惑っているこいつは、俺に欲情したことがない。そしてそういえば俺も、こいつを冗談半分にでも誘惑しようと思ったことがない。  ガーランドによると、それはマーレイが相当高いレベルの魂を持っているからであるらしい。  悪しきものから遠い存在であるがゆえに、もしも付け入る隙ができたときには一番のご馳走になりうる存在。  つまり偶然にも、強い力を秘めたディケンズとマーレイがそろってあの場にいたことは、悪魔にとって「さあどっちも美味しいよ、好きなほうをお食べ」と言われている状況だったのだ。 「ウィルビーはディケンズを探り、奴が使えるってことや、お前やマーレイのことも知ったんだろう。この三人はめっけもんだと狂喜乱舞したはずだ。で、マーレイに手紙を送りつけることでお前とディケンズを引っ張り込んだ。生贄は、ディケンズでもマーレイでも、どちらでもよかったんだろう」  一同がおし黙ってしまったところへ、犬……、シキが、トレイに乗せて軽い夜食を運んできた。気分を少し変えるにはいいタイミングだ。  マーレイ家の老執事がこしらえた高級野菜のキュウリを使うキューカンバー・サンドイッチは、上流階級の間で昨今流行のグルメ。普段なら俺の好物でもある。機械的に口に運んだが、今日は味がしない。 ――ねえ、そもそも、ウィルビーは何者なの? 「ああ、それはな……」  という返事に、エッドが不思議そうな目を向けたので、マーレイがすかさず自分の言葉としてフロゥの質問を繰り返す。 「ウィルビーは何者なんです?」 「あいつ、口から黒いの吐き出してたぜ」 「うむ、あいつはなぁ」  手にしたサンドイッチをぼんやり見つめながら、ガーランドは何と説明したものだろうかと悩む素ぶりを見せた。  「ウィルビーこそが悪魔、と言っても嘘ではないかもしれん」  そうつぶやき、ひと口サンドイッチを頬張ってから語り始めた話は、俺たちが呼吸するのさえ忘れそうになる驚愕の物語だった。  遠い遠い、昔。  人と神々や妖の距離が今よりかなり近く、科学の領域もまだ「魔術」と呼ばれていた時代。  今でいう東欧の辺りに、ある強大な悪魔が生じ、人々のあらゆる「欲望」を吸い取ることで肥え太っていた。吸えば吸うほど飢えは激しく、治まることがない。そこで悪魔は、人間たちがもっと貪欲になるよう仕向け、一帯は強欲や色欲で荒れ狂った。  理性ある秩序を取り戻すべく、司祭や霊力を持つ者たちが力を振るい、大いなる犠牲を払った末に悪魔を調伏。聖なる箱や壺への封印を試みたが、霊力が足りないのかどれもすぐにヒビが入り、長持ちしない。危うくとり逃しそうになってしまった。  モノでダメならと動物や人の死体に封じるのを試したが、これもすぐに腐りだし、また逃げられそうになる。かといって生きた人間に封じれば、取り憑かれて悪魔となり、復活してしまうだろう。  そこで、司祭たちは考えたのだ。人ではないものと造ろう、と。  薄暗い祈祷所の中央に、液体を満たした棺のようなものが据えてある。横の台には、悪魔を仮に封じてある女の死体。  周りを囲む、司祭と力ある者たちの祈りが低く長く続くと、液体の表面にさざ波が立ち始めた。  波は詠唱が高まるにつれて激しくなり、細かく振動し、やがて最高潮の祈りの声と共に、ふっつり、と静まった。  棺めいた容れ物のなかに、人影が現れていた。  白い肌、銀色の髪、そして見開かれた両の目は、灰色がかった緑色。  股間に未熟な突起を持ってはいるが、男性として機能するものではない。それは、少年として扱われることにはなったが性別はなく、それどころか、人としての正しい細胞も、同じ臓器も、赤い血液も持ってはいない。――ホムンクルスだ。   人ではないがゆえに、悪魔はその細胞にも体液にも同化することができず、実体化が叶わない。  中身が漏れ出さないカプセルのように、安全な容れ物というわけだ。  すぐさま執り行われた別の儀式によって、悪魔は、仮納めされていた女の死体から少年の中に移された。どう移されたのか定かに伝わってはいないが、多分、俺たちも見たあの黒い稲妻が女の口から迸り出て少年の中に納まったのだろう。  その際、三つに分けることで、万が一のとき一度に取り憑かれる危険を回避したのか、それとも、術力が足りずに三回に分けて入れることになったのか、今となってはわからない。  しかし、確かに誕生したのだ。〝三つに分けられた悪魔〟と、その器が。

ともだちにシェアしよう!