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第6話

6 望み、求めよ 「俺な、あそこなんかどうかと思うんだが。テムズ川の船着場なんだが」  ロンドンを知り尽くしたエッドがどこかを提案している。  ……え?  がばっと身を起こすと、そばにいたマーレイがビクッと驚いた。 「どうしたのルージー?」 「俺、どうしてた?」 「一瞬、寝落ちしたみたいだったけど」  一瞬?  全員が話をやめてきょとんと、あるいは心配そうに、俺を見ていた。  何かに気づいた様子はまるでない。  ガーランドほどの魔術師でも、夢の中で俺が何かを体験していたとはわからないらしい。 「すまん、寝ぼけてた」   少し挙動不審かと案じたが、周囲は、連日のあれこれに俺がどうしようもなく疲弊しているのだと思ってくれたようだ。 「すまん、続けてくれエッド」 「ん、ああ。対決場所に、テムズ川の船着場にある小屋なんてどうかと思ってな」 「なるほど」 「水辺はいいな。水の流れに乗せて霊的な壁を築ける」 「そうだ、そうすれば背後を気にせず正面から攻め込める」  話し合いが再開した陰で、俺はそっとそのまま疲れているふりをしながら考えを巡らせていた。  テムズ川沿いの船着場? それはまずいな。  ウィルビーは言った。     〝××××で、待ってる〟。  奴が言った、その場所は………。 「すまん、俺、やっぱりちょっと休む」  マーレイに告げ、皆んなに軽く会釈すると、俺はダイニングを出た。誰も疑問に思わないような自然さだったと思う。一人を除いては。 ――どこへ行く気? 「ちぇ、やっぱりお前には気づかれたか」  フロゥが門扉で待っていた。 「戻って告げ口されたくないから、一緒に来い」 ――私はそうするべきなんじゃない?  「そう」とは、戻って告げ口するほうの意味だ。 ――それか、何としても引き止めるか。  その通り。でも、俺は行くと決めている。思わず言葉が出た。 「頼むから」  フロゥが面食らった顔をする。 ――素直すぎてびっくり。 「お前なぁ……」  俺たちは、そっと門扉の外に出る。  魔法使いたちは常人より高い霊力を持っている者ぞろいだが、万能というわけではないらしい。その証拠に、俺が異空間でディーやウィルビーと会っていたことに気づいた者はなかったし、今、出て行く俺に気づく者もいない。  まあ一つには、フロゥが「俺の気配」を館の周辺に「残して」きてくれたせいでもある。 「お前、そんなこと出来たんだな」 ――私も驚いたわ。やってみようと思ったら出来ちゃった。  おかげで、かなり霊力の強いガーランドでも、しばらくは俺が近くにいると錯覚してくれるだろう。しかし、急がねば。  馬車の音を聞かれたくないので数ブロックを徒歩で行き、そこで辻馬車を拾った。行き先は、ロンドン塔。正確には、ロンドン塔のそばの艀(はしけ)。  あのとき、ウィルビーは俺に囁いた。 〝ロンドン塔そばの艀に停めた、タグ・ボートで待ってるから〟  テムズ川には、ロンドン港から物資や客を運んでくる帆船や蒸気船が行き来しており、混み合う中、円滑に目的の艀に着けるようそれらを先導するのが、小回りのきくタグ・ボートだ。蒸気エンジン搭載の小型船で、船尾の片側もしくは両側の外輪が回転することで水をかいて進む。そんなタグ・ボートが川岸のどこに停泊していようと、気にとめて怪しむ者などいるはずもない。ウィルビーはその中に潜み、テムズを絶えず行き来することで身を隠していたのだ。水は霊的エネルギーを含みやすく、さっきガーランドが言っいたように結界を創るにも利用できるが、逆に言うとその上を移動し続けることで自分の気配を他のエネルギーの中に紛らせてしまうこともできるらしい。  さらにテムズのように汚く瘴気の多い川であれば、「暗くてよく見えない」状態になる、とフロゥが教えてくれた。  ボートに、ディーもいるのだろうか。  はやる気持ちはどうしようもなく、リッチモンドから川沿いに東へ、ロ御者に金を握らせてヤバイくらいスピードを出させたが、それでも気持ちは落ち着かない。俺もフロゥのように飛んで行けたらいいのに。  それでもやがて、昼なお薄暗い瘴気を纏いそびえ立つ、悪名高きロンドン塔が見えてきた。  塔といっても、尖った単体の建築でないのは周知の通り。尖塔を四隅にもつ四角い建物が、周りをぐるりと城壁に囲まれて佇んでいる。    城壁内の有名な広場では、何人もの王妃が斬首されてきた。幼い王子二人が幽閉され、殺されて敷地内に埋められたという伝承もあり、幽霊が出ると評判だ。実際フロゥは、何人かに会ったことがある。  そんなロンドン塔の近くで馬車を止め、俺が降りたところでフロゥが戻ってきた。 ――船には結界で入れなかったわ。でも、船上にウィルビーがいた。  指差すほうを見やると、川岸に小さな艀があり、一艘のタグ・ボートが停泊している。  甲板に立つのは、灰色の丈長ジャケットと長い銀髪、白い肌、それらが構成する生彩のない色合いは、遠目で見ると人というより亡霊が佇んでいるかのよう。その亡霊が、俺を見つけて微笑む。 ――きゃっ。  フロゥが、見えない壁に弾かれて退いた。 ――結界を張られたわ。一緒に行けない。 「いいよ、お前は待ってろ。いざとなったら助けてくれ」  ――いざ、って何よ。 「うん、まあ、困った事態になったら呼ぶからさ、ここにいてくれ」  ――いや。嘘だもの。  強い調子で言い、俺を睨みつけた。 ――何を考えてるか、わからないとでも思うの?  フロゥが考えているのは多分、いざとなったら俺が命を絶つかもしれない可能性だ。  もし、この身に〝三つに分けられた悪魔〟がそろってから死んだなら、悪魔は「生きている間は好き放題」の部分をショートカットできたことを喜び、嬉々としてすぐさま亡骸に乗り移るだろう。  しかし、取り込む前に俺が死んでしまえば、少なくとも、目論見は振り出しに戻る。依り代を失い、悪魔はいったんウィルビーに帰る。  そこから先は、ガーランドたちに頑張ってもらえばいい。   と、いう風に、俺が考えているとフロゥは考えているのだろう。  俺は笑ってみせた。 「俺が自分を犠牲にして世界を救うような奴だと思うのかよ」 ――思わない。 「即答か」 ――そうよ。兄さんは、いくら世の中をクソみたいだと思っていても、〝自分が死ねばいいんだ、もう嫌なものを見なくて済む〟なんて考えるタマじゃないもの。ドブネズミ並みの生命力で、誰かを踏み台にしてでもクソみたいな世の中を渡りきってやるって考えるタイプだもの。そこは、私がものすごく尊敬してるところよ。  あまりの物言いに、度肝を抜かれた。 ――だから、兄さんは自分が負けるような死に方は選ばない。でも。  フロゥの白い姿は、涙を浮かべているように見えた。 ――でも、マーレイのためや……、ディーのためなら……。 「もういい」   俺は話を打ち切り、フロゥに微笑んだ。 「頼むから、すぐに告げ口に帰らないでくれ。俺に少し時間をくれ」  返事を待たず独りでウィルビーの元へ向かう背中に、フロゥは聞こえる限り話し続けていた。 ――兄さんの考えることなんて丸わかりよ。  タグ・ボートはコンパクトで小回りが効く水先案内船だ。荷を積み込む広い甲板もなければ、船室もなく、操舵室がある程度。ここに、長身のディーが横たわっているとは考えられない。 「ディーはどこだ」  ひと跨ぎすれば船上に上がれるくらいの位置まで近づいた。  ウィルビーは大げさに肩をすくめて笑ってみせる。 「野暮だねえ。僕との逢瀬に他の男の名前を呼ぶなんて」 「やめろ。――ムカつく」  芝居がかった溜め息をつくと、ウィルビーはくるりと背中を向けざまに、指でひょい、と「おいで」の合図をした。  ボートに乗り込む。なんだ? この、違和感……。   タグ・ボートは俺の体重を受け止めてもまったく揺れなかった。そもそも川波の上に浮かんでもいないような安定感をしている。まあ、たぶん、波の上には、浮かんでいないんだろう。  ウィルビーが片手をひらりと振ると、無人の操舵室で舵が動き出した。揺れないタグ・ボートは文字通り滑るように水面を進み、ロンドン湾へ、海のほうへ、向かっていく。  と思いきや、周囲が瞬く間に白い霧に囲まれ、テムズ両岸の建物はおろか、近くにいるはずの船舶も、水面も、何もかも見えなくなった。  全面の白。眩しくないが、発光しているような……。  ディーと俺が拉致された、あの空間なのか? 「まだ移行中というか、通過地点だよ」  考えを読み取ったかのようにウィルビーが言う。 「僕は霊力が君たちみたいに多くないからね。この河に溜まっている霊力を利用して異空間へ行くんだ。目的の空間に近づいたら、君にもわかるさ。嫌でもね」 「俺は自分の霊力?が高いなんで自覚はないぞ」 「だろうね。当たり前のように何かを持っている者は大抵そう言う。富や階級と一緒だ。それを持つ責任を自覚していないんだな」 「お前にはあるのか」 「僕は人が勝手に創った人形だもん。僕に責任なんか要求されても困るなあ。でも、君たちの誰よりも、生きる意味を考え続けていることは確かだな」  重い話を、気軽な世間話をするようなトーンで語る。  〝目的の空間に近づいたら、君にもわかるさ。嫌でもね〟  その意味深な言葉の理由が、判明した。  発光した白のどこか向こうから、音が、聞こえてくる。  音……、いや、声か。いや、声、と言うには、あまりにも……。  俺の全身から一瞬、血の気が引いた。  叫びだ。振り絞っているが枯れて掠れて声にならない、叫びだ。 「ディーの声だろ? どこに隠した!」 「教えたよね? 痛みに叫び続けて、喉が破れて血を吐いてるって。うーん、あの感じは、もう叫びにもなってないね」  掴みかかって殴りつけたいところだが、ディーに会うのが先だ。  白い発光の中で、断末魔のような声の在り処に全聴覚を傾ける。  どこだ。どこから聞こえる?   と、前方の霧がゆっくりと薄らぎ始めた。 舞台の幕が左右に開くように晴れていく視界。そこに現れたのは、海に向かう川上のボートが決して出会うはずのない光景だった。  ……ハイゲイト墓地! 「そうそう、せっかくだから束の間のデートを楽しんだ場所をセッティングしてあげたよ。何か思い出の場所なんだろう?」  鬱蒼と茂る木々に囲まれ、通路沿いに小さな館のように立ち並ぶ石造りの墓廟。  霧がすっかり晴れた墓地の眺めの中に、川に浮かぶはずのタグ・ボートだけが異常なものとして存在していた。  地面に飛び降りるとき、一瞬だけ、「下が本当は川のままだったら?」と考えたが、足がとらえたのは確かに、固めた土の歩道の感触だった。  くぐもった「叫び」が聞こえてくるのは、大きな鉄の扉を持ち、前面にゴシック風の彫刻を施してある墓廟の一つ。 途切れ途切れに、喘ぐような、……痛々しい声。  咳をしすぎて呼吸が苦しいときや、肺病病みの連中がするヒューヒューという音も聞こえる。それに、グフッ、ゴブッ、という音も。 「ディー?」 〝もう少し、こうしていようよ。散歩しよう〟  ディーの穏やかな笑顔が脳裏に浮かんだ。 〝最後かも、しれないじゃない?〟  俺は迷わず重い鉄扉に手をかけ、錆び付いた音を立てて軋むそれをぐいと押し開けた。  カビ臭い空気が顔を襲う。  しかし、目の前に現れたのは、一族の棺を安置した薄暗い空間でも、血を吐きながら横たわるディーの姿でもなかった。  外から見ると、大人が立って五人ほど入れるか……くらいの高さ・広さでしかない墓廟だが、中に広がっていたのは、真っ白な、大聖堂ほどもある高い天井と広い奥行きの異空間だ。  大理石めいた質感の床がはるか奥に据えられた祭壇?にまで続き、はるか上にはドーム型の天井が浮かんでいる。  鉄扉が背後でギイイッと閉まると、白光に塗りつぶされて消えた。  呻き声は、祭壇の上から聞こえる。  近寄るまでもなく、そこに横たわり身悶えているのがディーであることと、祭壇の上から側面をつたい、床へドロリと流れ落ちている幾筋かの赤黒い粘着性のものが、唾液と共に何度も何度も吐き出された血であることがわかる。  思わず、口を両手で覆って声が出るのを防いだ。     気を取り直して駆け寄ろうとしたとき、背後からウィルビーが俺を抱き止め、片手で両の目を覆って目隠しをした。 「待って待って。今のディケンズの姿をまともに見たら、百年の恋も冷めてしまうよ。ヤる気が萎えてしまっては困るからね、今、きれいにするから、待って」  そう言ってか何かを小さな声で唱え、ぱっ、と俺から両手をのける。 「いいよ、さあ、どうぞ」  目隠しから数秒のことだったのに、祭壇がすぐ目の前に近づいていた。  どろどろした血の跡もなく、呻き声もない。  見下ろすディーの姿は、下半身にシーツをかけたような状態で、やつれてはいるが、静かな寝息を立てて眠る締め切り明けのくたびれた作家くらいにしか見えない。  思わず、手を伸ばして両頬をさすった。少し、ヒゲが伸びている。 「ディー……」  今、俺はどんな顔をしているんだろう。  どんな表情で、ディーを見つめているんだろう。  心配させやがって、という不機嫌な顔だろうか。  不安でたまらない、という表情だろうか。  それとも、もし今ここにフロゥかマーレイがいたら、ニヤニヤしたり、冷やかされたりするような……、会えて嬉しいというような……愛おしげな表情だったり、するんだろうか。  ドクン  不意にディーのみぞおちの辺りが内側から大きく脈打ち、同時に俺の胃の腑が温かくなってきた。  ドクン 「ほら、呼び合っているんだ」  ウィルビーが楽しそうな声で言う。 「早く君の中に悪魔を受け入れて、ディケンズを楽にしてあげなよ」  ドクン 「俺が受け入れたら、ディーが助かるって保証はあるのか」 「んー、わからないな。成功するの、初めてだからね」 「…………」 「でも、ほら、前にも言ったけど、君が得た力で何とでもなるんじゃない?」  勝手なことを言いやがる。 〝――例えば、こんなふうに考えてるんでしょう?〟  さっきフロゥが言い続けた言葉が思い出された。 ――兄さんはきっと、ディーの中の悪魔を全部引き受けるのよね。だって、もし、ディーの命を奪ったとしても、そのときに出る血とか何かに混じった悪魔が兄さんの中に入り込むかもしれない。そうなったら死に損だもの。かといって兄さんが自殺したって、なんの解決にもならない。失敗した悪魔がまたウィルビーの中に戻って、今度は別の霊力の強い誰か……マーレイとか……が依り代に選ばれてしまうかもしれない。そのくらいなら、兄さんが悪魔の依り代になって……。  終わらせることができるんじゃないか、……と。  俺は傲慢にも思っているんだよ、フロゥ。  正直、何か策があって来たわけじゃない。出たとこ勝負だと思った。  そして今、ついにこんな状態にいる。  悪魔を取り込んでしまったら、自我をどこまで保てるのか未知数だ。  ディーがなったように、俺も獣のようになって、すぐさま世界をめちゃくちゃにし始めるかもしれない。  ガーランドやマーレイたちが助けに来ても、理解できずに殺しまくるかもしれない。  不安しかない。当たり前だろう?   なのに。  こうして見慣れたディーの顔を見つめていると、心は奇妙なくらいに静かだ。  今からしようとしていることが何でもないことのように思えてくる。  きっと、大丈夫、と。 「さっさとヤらせろよ」  上着を放り投げた俺を見て、ウィルビーが面白そうな顔をした。 「へえ、積極的だね」 「お前の言う通り、悪魔憑きになって力を手にすることに決めたのさ」 「へえ」 「ディーを元通りにして、お前を殺すにはそれしかないだろう?」 「そうかもねえ」 「こんな祭壇の上でヤれないな。寝心地のいいベッドを用意できないのか」  シルクのタイを外し、シャツのボタンを外しながら言っているうち、目の前の祭壇が消え、ディーの身体が白い発光の中に横たわる状態になった。初めて引き込まれたときの、あの異空間の状態だ。  全裸でディーの上に跨り、身をかがめて、口づける。かすかな、血の味。王子様のキスで目覚める仕立てか、ディーはクッと軽く喉を鳴らした後、静かに目をあけた。  すぐ近くに俺の顔があることを喜び、頰に手を伸ばして引き寄せ、自分からキスをしてきた。  最初のときの激しい獣欲に駆られた様子と違い、かといって俺と交わった後で正気に戻ったときの感じでもなく、なんというか、ほろ酔い気分で嬉しくなっているような眼差しと表情をしている。  それか、あれだ、阿片をやっている奴がよくこういう表情になる。  ウィルビーの魔法で、ちょうどそんな状態になっているのだろう。  にやけ顔のディーに深く長い口づけを与えてやると、奴の身体が反応し始めた。  両手が俺の背中をまさぐり、尻を撫でる。  やがて身体を返して、俺を下にした。その動きで下半身を覆っていたシーツがすべり落ち、確実に反応を始めていた男根が露わになる。  きれいな形。それが見る見る角度を増していく。  酔ったような表情のまま、とろん、としているが、ある意味これも「正気」ではない。  その証拠に、ディーは股間にあるモノが己の腹にくっつくかと見えるまでに屹立したとき、何のいたわりも気遣いもないまま俺にそれをぶち込んだ。笑顔を貼り付けたままで。  「うあ……っ!」  腹の奥が、ぶわっと温かくなった。  体内の悪魔が喜んでいる。  早く来い、分身よ、早く一つになろう、と呼んでいる。  期待に応えるリズミカルな腰使いが小刻みになり、早くも一回めの射精がありそうな気配。 「あ、あ、あ、ああっ、……あン、……あっ、あっ、ああ!」  それでも早漏にはならず、しぶとく長くピストン運動が続く。長く、長く。まだ、続く。  中が普通より敏感になっているのか、しびれるような感覚が下半身全体を包み込んでいる。  スピードが、速くなってきた。  再び、ぶわっと、腹の温かさが広がったとき……  ディーは遠吠えする狼のごとく身体をのけ反らせて、――達した。  俺の中起きた変化は、まず、熱だ。  温かいという表現では生ぬるい熱さが腹の中に満ちて膨らみ、そしてすぐに収束した。  次に、俺は夢を見た。  夢……と言っていいのかわからないが、まどろみとも酩酊ともつかない朦朧さの中で眺めた光景には、なぜかウィルビーがいた。  誰かに向かい、少し上向きに顔を上げて、微笑んでいる。  〝誰か〟は……黒い影で、いや、黒い靄が凝り固まったような……、なんとなく人の形だと見える黒いもやもやで……、ウィルビーに寄り添って佇み、片方の手?を彼の頬にあてている。  ウィルビーがその手に自分の手を重ね、そっと目を閉じた。なんというか……、愛おしそうに?  イ……シュ……、イェ……シュ、ア。   黒い靄人が発したと思われるくぐもった声が、聞き慣れない言葉をつぶやいた。  ウィルビーが目を閉じたまま答えた。  アシュモデ……。  光景が掻き回されるようにして消えていき、俺の意識はまた、まぶしくない白い発光に包まれた異空間に戻ってきた。  目の前には達したばかりのディー。  のけ反った身体を前に戻し、いったん俺から己が剣を引き抜く。 「んんっ……!」  抜かれる刺激に思わず声を漏らすと、酔っ払ったような顔のディーが俺を見下ろして、さらに嬉しそうに笑った。 「ん~、もっと、欲しいの?」  答えるより先に、ぐいっと俺の身体を引き上げると、くるりと返して後ろから羽交い締めに抱きかかえる姿勢に。首筋に唇と舌を這わせながら、両手を使って胸や腹を撫で回す。  敏感になっている乳首に手が触れるたび、俺の股間に血が巡っていくのがわかる。尾てい骨のあたりに感じるディー男根も、萎えることなくあの形よさを保っているようだ。  腹がまた温かみを増していく。  あと一つ。我が片割れよ我に戻れ、と呼んでいる。  それに呼応するように、ディーは俺の腰をつかんで浮かせると、己が屹立の上にあてがい、容赦なく、ずぶり、と串刺しにした。 「うあっ!……」  刺激の強さに、一瞬、身体が痙攣する。  普段こんな仕打ちをされたら間違いなく流血ものだが、魔術の支配下にあるせいか苦痛が感じられない。あるのは、快感に変わってゆく痛みだけ……。忌々しくも、これだけはウィルビーに感謝したい。  力強い突き上げの連続で、ディーは俺を悪路を行く辻馬車のようにバウンドさせた。 「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、ああっ」  そのたびに脳天まで突き抜ける快感に、俺は口から涎を垂らし、瘋癲者のようになって喘いだ。 「あぅあ、あう、うぅ、あぅ、ああぅ、あぁん、ぐぁ」  後ろ手にディーの頭をつかみ、快感のたびに髪を強く握る。  突かれながら胸の突起をこねくり回され、さらに股間をまさぐられたことで、俺はついに烈しく射精した。が、ディーの動きは止まらない。俺を四つん這いにし、えぐり上げてくる。  こんな乱暴に……こんなにがむしゃらに、俺を抱いた奴はいない。きっと正気のディーに抱かれてもこうはならないだろう。  だが、これはディーだ。とりすました仮面を剥ぎとった、ディーの欲望だ。  俺に対して、ディーが持っている欲望なんだ。それが、すべて、ぶつけられ、注がれている……。  腹の熱さが増すと、同じように打ち込まれているものも熱くなってきた。  ふいに動きを止め、腰をぐぐっと押し付けてくる。 「あぁ、やだそれぇ!」  ぐりん、と腰を回し、熱い棒で俺の中をかき回した。やだ、やだ、それ、感じすぎるから……。   深く、もっと深くへ、濃厚な欲情を注ぎ込むために、深く、深く、熱い棒が押し込まれ……。  引かれ、押し込まれ、引かれ、さらに強く、押し込まれ……。  そして、そのときがやってきた。 「ん、ぐぅっ……う!……」  喉を詰まらせるような唸り声と共に、ディーの下半身が大きく痙攣し、力強い射精が熱風のように俺の体内に吹き込まれた。  注ぎ込む、というよりまさに吹き込んだという勢いで俺の中を満たした存在は、ものすごい速さで全身をひたし、広がり、蠢き回った。  先に入っていた二つもまた、最後の片割れの来訪に色めき立って激しく蠢く。  体内で、「分けられた三つの悪魔」は引き合うようにして出会い、そして――混じり合った。  熱い。――全身が、内部からの熱で茹で上がりそうに熱い。それでいて、悪寒もする。  視界が点滅する。明、暗、明、暗……。  繰り返す中で瞬間瞬間に見える光景は、どの時代かもわからない大昔の都、かと思えば湖畔の小さな家、草原、砂漠、船上。  ウィルビーがいる。こちらに向かって笑っている。得意げにしている。怒っている。目を伏せて、浮かない顔をしている。  そこへ手がのび、頬をさする。ウィルビーが自分の手を重ね……、ん、この光景は、さっきの幻?  さらにたくさんの光景が、恐ろしいほど速い点滅の中に浮かんでは消えていった。  どこか遠くから、エコーするような声も。 〝楽しかったね、――次はどうする?〟  ウィルビーの声? 誰に向かって笑っている?  なんだ、なんなんだ。  こいつが、悪魔が、永い年月の中で見てきて光景なのか?   しかし、誰か人間の中にいないと、こんな風に真正面からウィルビーを見つめたり、手を差し伸べたりなんてできるわけが……。  これは、「願望」なのか?  襲い来る点滅の光景に支配されながら、俺は別のものも感じていた。  温かさ、のようなもの。  痛み、のようなもの。  さらになんというか……、切なさのようなもの、も。  声、がする。――いや、声じゃない。  〝想い〟が、音声になって伝わってくるような、不思議な感じだ。  触れたい。  お前に触れたい。    嫌だ。見つめたい。己が目で。      触れたい。  お前を感じたい。触れたい。嫌だ。  この身体では嫌だ。触れたい。皮膚が欲しい。   感じたい。この手では嫌だ。  自分の手を……。  この目では嫌だ。お前を感じたい。  嫌だ、嫌だ、この身体は。  肉を得て、肉を感じたい。   感じたい。見たい。  触れたい。  嫌だ。  肉を得て――――生きたい。  やがて〝聞こえる想い〟は薄れ、目の前の点滅もぼやけて消えた。  そのとき、俺はまざまざと感じた。  ああ、完全に、一つに、――なった、な。   とてつもない歓喜が、俺の中で荒れ狂っている。  力が満ちていく。かつて感じたこともない充実感。  意識がクリアに冴え渡る。どこまでも伸びていく。世界中、全てのことを見通せそうだ。  何でも成し遂げられそうな、何でも操れそうな、全てがこの手中にあるような。  突如、ふわりと身体が浮いた。上へ、上へ。  それにつれて全身が黒い靄に包まれていき、黒い衣装か毛皮をまとったようになった。自分では見えないが、もしかすると黒く大きな翼も生えているのかもしれない。   俺は今、どんな姿をしているんだろう。  顔は? 皮膚は? 目の色は? そもそも人の形をしているのか?  俺は今、何者なんだろう。  俺は…… 「なんと、美しい悪魔だろう……!」  見下ろすと、満面に喜びをたたえたウィルビーが両手を差し伸べていた。  体内の悪魔も喜びに呼応したのがわかる。 「さあ、ここへ」  ずっと見てやがったんだよな。覗き魔め。  視線を移すと、さっきまで俺と身体を繋げていたディーの姿があった。今は、均整のとれた美しい裸体がミケランジェロの「瀕死の奴隷」の彫刻よろしく片手を胸に当て、頭を少しのけ反らせて横たわっている。胸がゆるやかに上下しているのを見ると、呼吸をしているようだ。眠っている。――生きている。生きている、生きている!  そちらに降りようと意識したとたん身体がゆっくり降下を始め、その間を利用して、まとわりつく黒い靄が黒い衣装へと変化していった。  黒い上着にズボン、黒いシルクのシャツにタイ、銀のタイピンや黒ベストに適度にあしらった銀糸の刺繍など、悪魔らしい?晴れ着。たぶん俺にものすごく似合っているだろうが、俺が選んだわけじゃない。これはお前のセンスなのか?、悪魔。お前にも自我があるってことか。  横たわるディーの元に舞い降り、呼吸が見間違いでないことを確かめる。しかし、悪魔を寄生させていた身の消耗は激しく、命の灯が弱々しいのが感じ取れた。  俺は、目を閉じて、満ち渡る力に身を委ねた。  ディーに口づけし、そのあと呪文を――といっても俺は魔術を学んだ身ではないので、ただ、いま願うことを――念じた。  閉じた瞼の裏に再び、光景の点滅が始まる。  だがこれは「見せられて」いるものではなく、俺が、意思をもって「見よう」と意識したものだ。  飛ぶ鳥のように、意識がロンドンの空をゆく。広範囲へ広がる。  さまざまな場面が小さな窓の集合体のようになって数百も目の前に広がり点滅するが、それらをすべて難なく把握し理解することができる。  はは、すごいな。   フロゥが驚いて空を仰ぐのが見えた。俺の姿があるわけではないが、感じ取ったのだ。  リッチモンドのマーレイの屋敷には……なぜだ? 彼らがいない。一人も。どこへ行った?  ああ、そうか。なるほど。準備がいいな。フロゥめ、戻って知らせたのか。……マジか、あのジジイ! でもまあ、かえって都合はいい。  これ、本当にいいな。悪魔の能力があると、何でも可能になりそうだ。ただし、俺が悪魔の機微を感じ取れるように、あっちも俺の考えや心境を読み取れるはずだから……。  ほうら、蠢いている。うずうずと。  俺は確信をもって語りかけた。中にいる者に。 ――取引をしようぜ。悪魔さんよ。

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