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金糸雀(カナリア)14 side蓮

4階の廊下を突き当たりまで歩き、そのドアに取り付けられた小さな窓から中を覗いてみた。 部屋の中央に置かれたグランドピアノの前に楓の姿があって。 左横には、長野先生が座っている。 完全防音だから、音は聞こえてこないけど。 一心不乱にピアノに向かう楓の横顔は、いつもよりも硬い気がして。 いつも穏やかに微笑んでいる印象の長野先生も、厳しい表情で。 調子悪そうだな… やっぱり平野のことが尾を引いているのか… しばらく黙って見ていると、楓は鍵盤から手を離して、肩を落としうつむいてしまった。 長野先生が、溜め息を吐いたのがわかる。 「楓…」 今すぐにでも駆け寄って、その肩を抱いてやりたかったけど、目の前の扉を開くことは出来なくて。 固唾を飲んで見守っていたら、不意に顔をあげた先生とばっちり目が合ってしまった。 「あ…」 思わず後退ったら、長野先生が立ち上がって。 まっすぐ、こちらへ向かってくる。 「そんなところで見てないで、入ったら?」 先生はなんの迷いもなくドアを開け。 優しく微笑みながら、俺に向かってそう言った。 その瞬間、肩を落とし膝の上で堅く握りしめた拳を睨むように見つめていた楓が、弾かれたように顔を上げ、目を真ん丸にして俺を見た。 「あ、いえ、俺は…」 「そんなこと言わないで。さあ、どうぞ」 遠慮しようと再び後退ろうとした腕を、強く掴まれて。 強引に、レッスン室の中へと入らされてしまう。 「…悪い、な…邪魔して…」 「…ううん…」 謝ると、楓は力なく笑って首を横に振った。 長野先生は部屋の角からパイプ椅子を取り出し、ピアノから少し離れたところへ置いて、そこへ座るように俺に指示する。 「さてと…そうだな。珍しいお客さんが来たから、少し気分転換でもしようか。九条くん…ああ、二人とも九条くんだね。じゃあ、蓮くん。なにがいいかな?君の好きな曲を楓くんに弾いてもらおうか」 「ええっ!?」 仕方なく椅子へ腰を下ろすと、全く想定外の言葉が先生から飛んできた。 「いえ、そんなのはっ…俺のことは気にせず、レッスンを続けてくださいっ!」 「言っただろう?気分転換だって。今日の楓くんは少し煮詰まってしまっていてね…そういう時は、根を詰めても仕方ない」 「は、ぁ…そんなもん、ですか…」 「そんなもんなんだ」 口調は穏やかだが、こちらには選択権を与えないような言い方で。 …今日は、こんなのばっかりだな… 「で?蓮くんは何が聞きたい?」 なんとなく加藤の顔を思い出していると、催促が飛んでくる。 何が聞きたいか、なんて 俺の答えはひとつしかない 「じゃあ…ショパンのノクターンを」 楓が父親からもらった 大切な曲 そして俺の心を震わせた曲 楓が道に迷っているのなら その行く先を照らしてくれるのはこの曲しかないから そうだろ…? 思いを乗せて楓を見つめると、ゆらりと瞳が揺れて。 まるで泣き出す前みたいに、口をへの字に曲げた。 「ショパンのノクターンか…良い選曲だね。じゃあ楓くん、どうぞ」 「先生、でも…」 「ほらほら。余計なことを考えないで、さっさと弾く!」 何かを言いかけたのを遮って、先生は楓の手を取って鍵盤の上に乗せた。 楓は縋るようにじっと先生を見たけど、先生は腕組みをしたまま穏やかに微笑んでいるだけで。 やがて根負けしたのか、小さく息を吐き。 一瞬だけ俺へと視線を送ると、目をゆっくり閉じた。 それはまるで 自分の中に溢れる音に耳を澄ましているようにも見えて 身動ぎもしないで見守っていると、再びゆっくりと目を開いて。 唇の端に、小さな笑みを浮かべた。 瞬間、美しい音の粒が舞って。 俺は 楓の音に包まれた

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