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金糸雀(カナリア)16 side蓮

15分ほどして戻ってきた先生にまたも引き留められ。 結局、楓のレッスンが終わるまでその場で待たされた。 楓の奏でる優しい旋律に身を委ねながら、静かに本を読む時間は、久しぶりの穏やかな時間で。 無意識に入っていた身体の力がすっと抜けるような感覚に、知らず自分の心が疲弊していたことに気付かされた。 最近は、学校の勉強や生徒会の活動に加え、父の仕事にも少し携わるようになってきていたから、前よりも余裕がなくなっていたのかもしれない。 そんな時、いつも癒してくれるのは楓の存在で。 絶対に失いたくない。 『ガラスケースに入れて、眺めていたいだけじゃない?』 春海の言葉が、頭の片隅をまた、過った。 朝よりも数倍軽くなったような心と身体で、家へ帰ると。 「蓮さん、旦那様が先ほどお戻りになられました」 お手伝いの小夜さんから、そう伝えられた。 父は世界に展開するグループ企業の視察に忙しく、滅多に家に帰ってくることのない人で。 今日も、戻ってきたのは3ヶ月ぶりだった。 「そうか、ありがとう。楓、挨拶に行こう」 「あ…うん…」 後ろをついてきてた楓を振り向くと、ちょっと怯えたような顔で、頷く。 「お父さん?蓮と楓です」 「ああ、どうぞ」 書斎のドアをノックすると、中からすぐに返事がきて。 肩を小さくして尻込みしてる楓の背中を押しながら、中へと入った。 久しぶりに見る父は、少し疲れたような顔をしていたが。 楓の顔を見ると、微かな笑みを唇の端に浮かべる。 だがすぐに顔を引き締めて、俺へと向き直った。 「おかえりなさい。マレーシアの新しい現地法人、いかがでしたか?」 「ああ、ようやく軌道に乗り始めたよ。次の夏休み、おまえも一緒に来て、その目で確かめるといい。ゆくゆくは全て、おまえに渡すことになるものだからな」 「はい」 俺とお父さんがビジネスの話をするのを、楓は横で居心地悪そうに小さくなって聞いている。 「おまえたちは、どうだ?楓、ピアノのほうは上達してるのか?」 突然、話を振られて。 楓は大袈裟なくらいにビクッと震えた。 「あ…えっと…あの…」 「楓、全日本学生音楽コンクールの予選、通過したんです。うちの学校からは楓だけが通過したようで。8年ぶりの快挙だって、学校中大騒ぎですよ」 「ちょっと、蓮くんっ…」 小さくなったまま、はっきり言わない楓の代わりに、少し尾ヒレをつけてその話をしてやると。 楓は慌てたように腕を掴んでくる。 「ほう…」 「あのっ…お…僕、まだ練習あるんでっ…失礼しますっ…」 「え、ちょっとっ…!」 お父さんの感心したような声に被せるみたいに。 早口で捲し立てた楓は、俺の制止も聞かずに部屋を飛び出していった。 「…ったく…」 楓の消えたドアがパタンと閉まるのを見ながら、つい溜め息が出る。 あいつは… いつになったらまともにお父さんと話をすることが出来るんだ この家の一員になって もう10年以上経つのに… 「…楓のピアノは…諒譲りの才能なんだな…」 「え…?」 ぼそりと呟くような言葉に、もう一度振り向くと。 お父さんはなぜか苦しげに眉を寄せている。 「お父さん…?」 「蓮。楓のこと…まだ誰にもバレていないな?」 なぜそんな顔をしているのか、不思議に思って聞き返そうとしたら。 先にお父さんの方から質問が飛んできた。 「あ、はい。大丈夫です。みんな、楓が本当はΩであることには気付いてません。…楓自身も」 「薬は?ちゃんと飲んでいるんだろうな?」 「はい。飲み忘れると心臓の発作を起こすから、必ず忘れるなと強く言い含めていますので。それは怠っていないはずです」 「…ヒートの兆候は?」 「全く。時期的にはもう来ていてもおかしくない年齢ですので、恐らくは抑制剤が効いているものと」 「…そうか…」 安堵したように呟くと。 お父さんは額に手を置いて、表情を隠すようにしながら椅子へ深く体を沈めた。

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