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火食鳥(ひくいどり)32 side蓮
『…うわぁ…すごい…』
一階の一番奥の部屋
そこに置かれたグランドピアノを見た瞬間
それまでくすんだ硝子玉のようだった瞳に
光が宿った
『僕…こんな大きなピアノ、初めて見た。…弾いても、いいかな…?』
父親に置いていかれて泣いてばかりいたおまえに、笑って欲しくて
思い付く限りの楽しそうなことをやらせてみても、表情一つ変えなかったおまえが
あの時初めて見せた、瞳の煌めき
『うん!もちろん!』
それをもっと見ていたくて
父に絶対に触れるなときつく言い渡されていたことも無視して、頷いた
ピアノの前に座ったおまえは
初めて見せる綺麗な微笑みを浮かべて
幸せそうに鍵盤を弾く姿は
地上に舞い降りた天使のように神々しくて
気が付いたら
涙が頬を伝っていて
その美しい天使をいつまでも見ていたいと
滲む視界を何度も腕で擦ったことを
昨日のことのように覚えている
そのピアノが
楓の父、諒叔父さんのものだったことを知ったのは
それからずいぶん後のことで
その時感じた
叔父さんに捨てられ
絶望に打ちひしがれたおまえを救ったのは
やはり叔父さんなんだと
だから…
「…叔父さん…楓を、助けてください…」
祈るような気持ちで、ピアノの蓋を開けた。
人差し指で鍵盤を弾いてみると、楓の音がした。
「えっと…ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ…」
ずいぶんと前の朧気な記憶を手繰り寄せながら、一つ一つ音を声に出しつつ、鍵盤を押す。
『もう…違うよ。そこはファ!ミはこっちだって』
ピアノを弾いてる楓があんまり綺麗だから、俺も弾いてみたくなっちゃって。
教えてもらったけど、どういうわけか楽譜も読めなければ、どの鍵盤がなんの音かすら覚えられなくて。
あまりの才能の無さに落ち込む俺に、楓が根気強く教えてくれた唯一の曲。
『人差し指だけでいいから、ゆっくり一つ一つ弾いてみて?』
そう言いながら、俺の手に自分の手を重ねてきて。
背中から伝わる体温と、耳にかかる微かな吐息に、すごくドキドキしながら。
なんとか覚えた『キラキラ星』
『これね、僕が父さんに初めて教えてもらった曲なの。だから…僕と蓮くんは同じだね?』
最後まで弾き終えた俺に、嬉しそうに笑って…
楓…
もう一度
あんな風に笑ってくれよ……
「えっと…次、なんだっけな…」
途中までは覚えていたのに、すっかり忘却の彼方で。
手を止め、必死に記憶を遡っていると。
「ソ、ソ、ファ、ファ、ミ、ミ、レ」
後ろから、細くて長い、綺麗な指が伸びてきて。
滑らかに、鍵盤を弾いた。
「楓…!?」
驚いて振り向くと。
いつの間に入ってきたのか、楓が困ったように眉を下げて俺を見ている。
その瞳に
微かな光を宿して
「俺との大事な曲、もう忘れちゃったの?」
「…おまえ…どうして…」
「…音が…聞こえた、から…」
「え…?」
そんなはずない
この部屋は防音設備が施してあるから
二階の、しかもドアをきっちり閉めた楓の部屋の中までは音は届かないはず
「うん…でも、聞こえたんだ…父さんの、ピアノの音…」
「…楓…」
「もう一回、弾いて?キラキラ星」
そう言って。
楓はあの時のように俺の手に自分の手を添えた。
「ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ…ファ、ファ、ミ、ミ、レ、レ、ド…」
ゆっくりゆっくり、音を確かめるように。
二人で鍵盤を弾く。
「…レ、レ、ド…」
最後まで弾き終わり、振り向くと。
楓は笑っていて。
それはあの日と同じ
天使の微笑みで
堪らず、抱き寄せて。
唇を重ねた。
「楓…弾いてくれよ…」
「…蓮くん…」
「自分のために弾けないのなら、俺のために弾いてくれ。俺には、おまえのピアノが必要だから」
楓はしばらくの間、逡巡するように俺の目をじっと見ていたけど。
「…うん」
やがて、小さく頷いた。
慌てて椅子から立ち上がると、入れ替わりに楓がそこに座って。
一度目を閉じ、深呼吸をすると。
ゆっくりと鍵盤に手を置き、息を吸った。
ショパンの『ノクターン』
あの時と同じ…いや、あの時よりももっと繊細で美しい音が、俺の身体を満たしていく。
胸がいっぱいになって。
身体の奥の方からあったかいものが溢れだしてきて。
気が付いたら、あの時と同じように、頬を熱いものが伝っていた。
そして、楓の頬にも…。
「楓…」
演奏の邪魔にならないように、そっと抱き締める。
神の祝福のような美しい音色に満たされた部屋で
俺たちはいつまでも寄り添っていた
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