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花魁鳥(エトピリカ)1 side龍

「じゃあ、行ってくる」 「うん。いってらっしゃい」 まるで夫婦みたいだな… ここんとこ毎日交わされる会話を聞きながら、階段を下りた。 「…いってきます」 兄さんが出ていったドアを、名残惜しげにいつまでも見つめてる楓の横をすり抜けて、靴を引っ掛ける。 「あ…龍、いってらっしゃい」 取って付けたみたいな声が聞こえてきたけど。 それには振り向かずに家を出た。 「待ってよ、兄さん。俺も乗っけて」 車の後部座席に座った兄さんの隣に、無理やり乗り込む。 「おまえ、まだいたのか」 「うん」 ドアを閉めると、兄さんはもう興味なさそうにふいっと俺から顔を背けて、窓の外を眺めて。 俺はしばらくの間、その端正な横顔を眺めていたけど。 「…ねぇ」 学校への道のりを半分くらい進んだところで、口を開いた。 そのために 今日はわざわざ兄さんの車に乗ったんだ 「どうすんの?楓のこと」 その名前を口にすると、ピクッと眉を動かして。 俺の方へと顔を向ける。 「…なにが?」 「あいつ…もう三ヶ月も学校休んでんじゃん。まさか、このまま退学したりしないよね?」 眼差しに力を籠めると。 微かに兄さんの瞳が揺れた。 「どうすんの?あいつ…このままでいいの!?」 結局 あの入院から三ヶ月 楓は学校どころか一度も家から出ていない ただ一日中ピアノを弾いて 時々、小夜さんの手伝いをしているだけ そりゃあさ… あんなに頑張って練習してたコンクール 病気で棄権しなきゃいけなかったことは可哀想だとは思うけど でもだからって 三ヶ月もいじけてるなんてどうかと思うし それに一番不可解なのは それを兄さんが容認してるってことだ そういうの一番嫌いなのは兄さんじゃん… 楓のこと可愛いのはわかるけど ちょっと甘やかし過ぎなんじゃねぇの? 「このままじゃ、あいつ留年だよ!?兄さんはそれでいの!?」 「…わかってる」 「わかってねぇよ!」 つい感情的に声を荒げると、兄さんはふいっと目を逸らした。 そんなこと するはずがない人なのに 変だ 兄さんも楓も あれからずっと変だ 「そんなに、大変な病気なの?家から一歩も出られないほど?」 俺の問いに、兄さんは答えない。 それに舌打ちしそうになるのをぐっと堪えて。 俺は兄さんを睨み付けた。 「…このこと、お父さんは知ってるの?」 「…いや…」 「兄さんが言いにくいんなら、俺が言う。んで、もう一回入院させるなり、他の学校に転校させるなり…」 「お父さんには、余計なことは言うな!」 お父さんの名前を出した途端、兄さんの顔に怒りが浮かび上がって。 狭い車内に響き渡る大声で、突然怒鳴ったのに驚いた運転手が、急ブレーキをかける。 ガクンと車が大きく揺れて。 シートベルトが食い込んで、一瞬息が詰まった。 「れ、蓮さん…?どうしたんですか…?」 運転手が恐る恐るこっちを振り向いたのが、目の端に映ったけど。 俺は腹に力を入れて、兄さんの目を睨み返すのに必死だった。 その瞳には 全てを凍らせるような冷酷さと 全てを焼き付くすような怒りが混在していて 気を抜くと あっという間に飲み込まれてしまいそうだったから 「…楓のことは、俺に任せてくれればいい。おまえは、なにも考える必要はない」 「っ…ふざけんなよっ!俺だってあいつの家族だぞっ!」 「家族だろうが、関係ない。楓のことは、おまえにも…お父さんにも、口出しさせない」 「…偉そうに…なんだよ、それっ…!」 「なんとでも言え。とにかく、楓のことは俺が全部考える」 ピシャリと言い切って。 兄さんは、再び俺から顔を背けると、腕を組んでこれ以上の会話を拒絶するような態度を取った。 それはまるで 心の扉を目の前で勢いよく閉められてしまったようで ドロドロとした真っ黒い何かが 身体の奥の方からじわりと染みだして 少しずつ、俺を侵食していく… 「…ふざけんな…」 兄さんに心底ムカついたのは 生まれて初めてだった

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