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花魁鳥(エトピリカ)4 side龍

「…なんで…知ってたの…?」 最後まで弾き終わり、鍵盤から手を降ろした楓に、問いかけた。 楓はゆっくり立ち上がり、その美しい音を生み出す長い指で俺の涙を拭って。 ふわりと微笑む。 「だって龍、昔いつもこれ聞いてたでしょ?」 「え…?」 「これを聞いてるときの龍、すごくいい顔してたから…この歌、大好きなんだなって思ってたんだ」 知っててくれた… 俺のこと見ててくれたんだ… 「…お母さんが、好きだった歌なんだ…」 ぼそりと告白すると、楓は一瞬目を見開いて。 「そっか」 すごく遠い目をした。 きっと 楓も自分の父親のことを思い出しているんだろう 俺たち 今同じ気持ちだよな… そう思うと、ほわんと心の真ん中があったかくなって。 思いが、強くなる。 やっぱり楓しかいない 俺のことわかってくれるのは 「…楓…」 頬に触れたままだった手を、握った。 もう片方の手を背中に回し、強く抱き寄せた。 「えっ…」 その時突然 花のような甘い香りが漂ってきた 「…っ…!」 腕のなかの楓が、ビクッと震えて身を固くする。 「楓…?なんか、スゲーいい匂いがする…」 「りゅ、うっ…!」 そうして、肘で俺の胸をぐっと押して。 俺から離れようとした。 「楓っ!?」 「ダメっ…離してっ…!」 反射的に腕に力を込めて、その身体を強く抱き込んでしまった。 「やっ…ダメっ…!」 楓は、俺の腕から逃れようと手足をばたつかせる。 その顔は、恐怖にひきつったもののように見えて。 頭を、ハンマーでガツンと殴られたような衝撃が走った。 「なに…?急にどうしたんだよっ!?」 さっきまで、その美しい歌声で俺を優しく包んでくれていたのに。 突然、手のひらを返したように拒絶されて。 ショックで、一瞬目の前が真っ暗になる。 「楓っ!?どうしたの!?」 「ダメっ…龍、離してっ…!」 暴れる楓を、離すまいとさらに腕に力を込めると。 また甘い匂いが強くなった 「…楓…?」 無理やり、顔を覗き込む。 さっきまで白磁のように白かった頬は、薄らとピンク色に染まっていて。 真っ赤に熟れた果実のような唇からは、浅い息が漏れている。 夜空に煌めく星のような瞳は、ひどく潤んでいて。 突然 身体に火がついたように熱くなった 「っ…!」 その表情が、歪んだ。 恐怖に怯えるように。 なのに、唇は俺を誘うみたいに薄く開かれていて。 身体が、震えた。 自分の一番深いところから、声が聞こえる。 その熟れた果実のような唇を むしゃぶり尽くしてしまえと 「だ、めっ…!!」 吸い寄せられるように顔を近づけた瞬間、ものすごい力で突き飛ばされて。 身構えてなかった俺は、うっかり手を離してしまった。 「楓っ!」 振り向きもせずに部屋を出ていった楓を、追いかける。 楓は、普段の彼からは信じられない早さで階段を駆け上がって。 自分の部屋に飛び込み、俺の目の前でバタンと激しくドアを閉めた。 「楓っ!?」 ドアノブを掴んだ瞬間、ガチャンと鍵が掛かる音がした。 「楓っ!?開けてよっ!急にどうしたのっ!?」 ドアを叩くと。 「なんでもないからっ!俺のことはほっといて!」 ドア越し、拒絶するような叫び声が聞こえてきて。 その後は、何度ドアを叩いても、何度声をかけても返事すらしてくれなくなって。 「楓…」 突然のことに混乱した頭を抱えたまま、俺は楓の部屋の前に呆然と立ち尽くしていた。

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