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不如帰(ホトトギス)2 side春海

10年前のあの時 楓の身に何が起こっていたのか 蓮と楓と龍の兄弟の間でなにがあったのか 俺が真実を知ったのは 楓が失踪してから半年も経った後だった 当時の俺は 蓮の突然のアメリカ留学と楓の突然の転校に なんの疑問も抱いていなかった 蓮がいつかアメリカへ留学しなければならないことは知っていたし 楓が病気のために学校に来れないのだと思い込んでいたから 唐突にそうなっても それは致し方のないことだとそう思っていた いや… 思い込もうとしていたのかもしれない 楓に訳のわからないまま振られた悔しさに 自分を納得させる理由を探していたんだ だけど 一人取り残された形になった龍が 目に見えて憔悴していって ある日学校で倒れた 運んだ保健室で 死んだような真っ暗な瞳で話してくれた真実 楓が本当はΩだったこと 蓮と楓が『運命の番』だったこと 二人が異母兄弟だったこと 二人の関係に気付いたおじさんが蓮を無理やりアメリカへ送ったこと 楓の妊娠 そして 薬を飲ませ 眠っている間に子どもを堕ろさせたこと 楓がいなくなったこと 楓の失踪を知った蓮が 自分が相続すべきだった九条の全てを放棄すると言い残して 留学先から姿を消したこと 焦点の合わない瞳で、淡々と話す龍は。 まるで罪人が神に懺悔している姿にも見えて。 龍のやったことに怒りが湧いたけど。 それを責めることは俺には出来なかった。 俺が龍の立場だったら 同じことは絶対にしないと そう言いきる自信がなかったから…… 「ごちそうさま。美味しかった」 フォークを置き、口元をナフキンで拭うと。 龍はようやくほんの少しの笑顔を浮かべた。 「そう?口に合ったようで良かった。龍は舌が肥えてるから、どこなら気に入ってくれるか悩んだよ」 「別に…食べられればどこでもかまわない」 「それは嘘だろ。気に入らなきゃ、目に見えて不機嫌になるじゃん」 そう指摘してやると、ムッとした顔に変わる。 そういうところは小さい頃とあまり変わりがなくて。 だからつい 揶揄いたくなっちゃうんだよなぁ 澄ました顔でワインを口に運ぶ横顔を見つめながら、こみ上げる笑いを噛み殺していると。 パラパラと、あちこちから拍手の音が聞こえてきた。 「なに?」 不思議に思って周りを見渡すと、フロアの端っこに置いてあったグランドピアノのところに、清楚なドレスを着た女の人が立っていて。 深々とお辞儀をし、鍵盤の前に座った。 「へぇ…生演奏なんてやるんだ」 「…知らなかったのか?自分で予約したくせに」 「…悪かったな」 仕返しとばかりに、嫌みったらしく言われて。 悔しさに、べーっと舌を出してやる。 「…ガキかよ」 龍が、クスッと笑った。 その時。 聞き覚えのある優しいメロディーが、その空間に溢れた。 「…ショパンの…ノクターン…」 優しく、どこかセンチメンタルなメロディーは。 懐かしくて愛おしい 哀しい人を思い出させる音 「…楓…」 何年ぶりに、その名前を口にすれば。 それだけで胸が締め付けられるように痛んで。 涙が溢れそうになる。 思わず胸に手を当て、正面の龍へと視線を移せば。 泣くのを堪えてるみたいに、眉間に皺を寄せ。 唇をきつく噛んだまま、ピアノを弾く女性を睨み付けるように見つめていて。 なんとなく、その姿を見てはいけないような気がして。 目蓋を閉じ、その裏にかつて愛したその人の姿を浮かべながら。 俺はただじっと、その美しいメロディーに耳を傾けていた。

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