107 / 566

不如帰(ホトトギス)11 side志摩

「じゃあ、志摩くんをよろしく」 診療所から車で5分ほど離れたマンションの前で、僕は柊さんに手を引かれ、誉さんの運転する車から降りた。 「うん。送ってくれてありがと」 「あ、柊。志摩が落ち着くまで、店、休んでいいからな」 柊さんが頷くと、不機嫌そうな顔で無言で助手席に乗ってた那智さんが、ようやく口を開く。 「…いいの?」 「ああ。おまえがいなくてもなんとか…って、やべ。三日後にアフターの予約入ってんな…斎藤代議士かぁ…変更かけれっかな…」 鞄から取り出した分厚い手帳を見ながら、ぶつぶつと呟く那智さんに、柊さんは小さく笑った。 「キャンセルしなくていいよ。じゃあ、そこまで休ませてもらうね?」 「ああ、悪い。それじゃ、志摩のこと頼むな?」 「うん」 走り去るクリーム色の小さなレトロな車を見送って。 手を引かれたまま、マンションへと足を踏み入れた。 オートロックのエントランスを通り抜け、エレベーターで5階へ上り。 廊下の突き当たりの部屋の鍵を、柊さんが開ける。 「さ、どうぞ」 「…お邪魔…します…」 恐る恐る足を踏み入れた部屋は、柊さんと同じ梔子の匂いがして。 その匂いを嗅ぐだけで、不思議と落ち着いた。 両側に一つずつドアのついた、短い廊下を歩き。 突き当たりのドアを柊さんが開く。 うちのリビングよりも広く見えるそこは、ベッドと小さなソファとローテーブルがある以外には、あまり物が置かれてない、ガランとした部屋。 その中で目を惹かれたのは、壁際に置かれた立派なアップライトピアノ。 ピアノの隣には、たくさんの本やCDが綺麗に並べられた棚があって。 そこだけ、まるで別の空間みたいだった。 ピアノ…好きなのかな…? 「疲れた?お腹空いてない?」 部屋の入り口でぼんやりと立ち尽くしていた僕の顔を、柊さんが覗き込む。 「え?あ…」 そう聞かれて。 しばらくなにも食べてないことを思い出した。 そういえば ごはん食べたのいつだっけ…? 考えると、突然お腹がくぅ~っと鳴る。 「あっ…」 「ふふっ…じゃあ、なにか作るね。志摩はシャワー浴びてきたら?その間に用意しておくから」 柊さんは笑いながら僕の手を引き、廊下にあった片方のドアを開けた。 「タオルは、これ使って?服は…俺ので大丈夫かな。持ってくるから入ってていいよ」 備え付けの棚から取り出したタオルを手渡される。 真っ白でふわふわなタオルなんて、久しぶりに見た気がして。 鼻の奥がつんとした。 服を脱ぐと、この一週間であばら骨が見えるまで細くなってしまった貧相な自分の身体が、嫌でも目に入って。 思わず目を背けた先に写ったものに。 息を、呑んだ。 洗面台の鏡に写った自分の背中に散る、無数の赤い痕。 その瞬間、忌まわしい記憶と感覚が、鮮やかに頭のなかに蘇った。 『あっ…あぁっ…やだぁぁっ…』 『やだじゃねぇだろ。自分から絡み付いてくるくせに』 …いや… 触らないで… 『正直に言えよ。気持ちいいって』 うそっ… 気持ちよくなんてないっ… 『ほら…望み通り、奥に出してやるよっ…この卑しいΩがっ…!』 いやだっ…… 「やぁぁぁーーーーーーっ!!」 「志摩っ!?」 誰かの腕が、僕を抱き締める。 「いやっ!離してっ!やだっ!」 手足をばたつかせて逃れようとすると。 「志摩っ!落ち着いてっ!俺は、君になにもしないからっ…!」 梔子の匂いが、僕を包み込んでくれて。 「大丈夫だから…俺は、君になにもしない」 何度も何度も、優しい声でそう言ってくれて。 少しずつ、身体に入ってた力が抜けていく。 「…しゅ…ぅ…さん…」 「うん」 「…しゅう、さん…」 「うん…俺だよ…?」 「柊さんっ…柊さんっ…」 その存在を確かめるように、何度も名前を呼ぶと。 マリア様みたいな微笑みで、僕を包んでくれた。

ともだちにシェアしよう!