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翡翠(かわせみ)1 side志摩

意識が身体の一番深いとこからゆっくり浮かび上がってくると 音が聞こえてくる 穏やかで優しくて 全てを包み込んでくれるような 春風のような音 それをいつまでも聞いていたくて 微睡みの中を揺蕩(たゆた)っていた やがて、音が途切れて。 僕は目を開いた。 まだ少しぼやけてる視界に映るのは、白い翼を持った天使。 「おはよ、志摩」 何度か瞬きをすると、それが柊さんの形になる。 それが ここへきて当たり前になった景色 「…おはよ…」 寝起きの掠れた声で挨拶すると、柊さんはピアノの蓋を締め。 起き上がった僕の頭をそっと撫でた。 「顔、洗っておいで。朝ごはん出来てるよ」 そう言われて、息を吸い込むと。 甘い匂いが鼻をくすぐる。 「はーい」 その匂いに誘われるようにベッドを降り。 洗面所で顔を洗って、さっぱりした気分で部屋へ戻ると、小さなローテーブルの上にはフレンチトーストが乗ってた。 「うわぁ!美味しそう!いただきますっ!」 「初めて作ったから、美味しいかどうかは保証しないけど…」 苦笑する柊さんの言葉を聞き流しつつ、ナイフで切り取ったフレンチトーストを口に放り込むと。 砂糖の甘さがほわんと口のなかに広がる。 「美味しいっ!」 「ほんと?よかった」 思わず叫ぶと、俺が食べるのを固唾を飲んで見守っていた柊さんは、表情を緩めて。 ようやく、自分の分に手を着けた。 「あ、ほんとだ。美味しいね」 そう言って微笑んだ姿は、やっぱり美しい天使のようだった。 「ねぇ、志摩は甘いもの好き?」 「ん?甘いもの?」 「うん。ケーキとかアイスとか」 「大好きっ!あ、でも…男が甘いもの好きって、変かな…?」 よく圭吾に呆れられたもんな そんなもん、よくそんなに食えるなって… 「そんなことないよ。実は俺も、甘いもの好きでさ。高校のときは、友だちとケーキバイキングに行ったりしたんだ」 ちくんと傷んだ胸に、思わず顔をしかめたら。 柊さんは優しく微笑んだまま、そう言った。 「え?僕、行ったことない!行きたかったけど、友だちに嫌がられちゃって…」 「そうなの?じゃあ、今度一緒に行こうか」 「ほんと!?」 「うん」 僕は、飛び上がって喜んだ。 もちろん、ケーキバイキングに行けることも嬉しかったけど。 それよりも未来の約束が出来たから。 この人とこの先も一緒にいていいんだって そう言ってもらった気がするから 「美味しい店、探しておくからね」 ここへ来てからの日課は。 誉先生が買ってきてくれた参考書で勉強すること。 元いた高校へはもう通えなくなってしまったけど、いつかの時のために勉強はしておいた方がいいと、無理やり押し付けられた。 正直、いつかの時なんてないだろうって思ったけど、勉強することは嫌いじゃなかったし、昼間に特にやることもなかったから、僕は与えられたそれを黙々とこなした。 柊さんはその間、ずっと横でピアノを弾いていた。 「ピアノ、邪魔じゃない?」 一度そう聞かれたけど、むしろ優しい音に包まれている方が静かなところよりも集中出来たし、なによりピアノを弾く柊さんの横顔が息を飲むほどに綺麗で。 いつまでもその横顔を見ていたくて。 「邪魔じゃないっ!」 「そう?よかった」 僕が首を横に振ると、嬉しそうに微笑んだ。

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