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翡翠(かわせみ)3 side志摩

日が傾く頃になると、柊さんは仕事に出掛けるためにピアノの蓋を閉め、準備を始める。 いつもは僕の分の夕食を作ってから着替えるんだけど、今日はキッチンには向かわずに、クローゼットへと向かった。 柊さんが紺色のスーツに着替えるその隣で、僕もこの間彼に買ってもらった、少しかっちりした感じに見える白いシャツと黒のスラックスに着替える。 いつもはTシャツにジーパンって格好しかしないから、鏡に写った自分が自分じゃないみたいに大人びて見えて、少し面映ゆい。 「…本当に、今日から店で働くの?」 濃い藍色のネクタイを締めながら、柊さんはもう何度目かになる質問を投げ掛けてきた。 「うん」 僕が頷くと、困ったように表情を曇らせる。 「あの店がどういうところか…ちゃんとわかってる?」 「うん。那智さんに、ちゃんと聞いた」 「だったら…」 「でも、やっぱり嫌なんだ。みんなの好意に甘えてばっかりなのは。誉先生が肩代わりしてくれてる薬だって、どんなに高いものだか調べたし。柊さんにだって、僕の食べるものや着るものまで全部用意してもらってるし…。自分で稼げるアテがあるんだったら、ちゃんと自分で稼いで少しでもいいからお金、返したい。昼間の勉強はちゃんとするし、那智さんの言うこともちゃんと聞く。無茶なことはしない。それは、那智さんと約束したから」 僕が今日から働くのは、クラブ『Angel's ladder(エンジェルズラダー)』 那智さんがオーナーを勤める、夜のお店だ。 「それに、当分見習いだから、接客はさせられないって那智さんに言われてるし」 「…そうだけどさ…」 『うちの店はまぁ、いわゆる高級クラブってやつだ。従業員は、全員Ωの男。一見さんはお断り、客の紹介でしか新規の客を取らない。紹介された客は必ず事前に身辺調査をして、少しでもΩに対して偏見を持つような言動が見られるようだったら、入店拒否。それは、俺がオーナーとして従業員を守るために絶対に譲れないところだからな。だから、妙な客は来ないし、逆を言えば社会的地位の高い客が多いから、こちら側もそれなりのマナーと礼儀、所作を備えてなきゃならない。それが身に付くまでは下働きだぞ?』 いつになく真剣な顔で、那智さんはそう説明した。 「どんなに高級って言ったって、夜の商売にはかわりないんだよ?」 「うん。わかってる。僕のお母さんも、そういう仕事してたから。あ、でも、その辺の安いクラブだったけど」 幼い頃、何度かお母さんの勤めるお店に連れていかれたことがあるから、その辺の知識は少しはあるつもりだ。 だから、安心してもらおうと笑顔でそう答えたら、柊さんはますます眉を困ったように下げてしまう。 「とにかく。もう決めたから。今日から、よろしくお願いします!」 チラリと時計を見ると、もう出なきゃいけない時間で。 柊さんを遅刻させるわけにはいかないと、話を打ち切るためにガバッと勢いよく頭を下げた。 「…案外、頑固なんだね…」 呆れたようなため息混じりの声に、恐る恐る頭をあげたら。 怒ってるのかと思った柊さんは、なぜか笑ってて。 「店で困ったことがあったら、必ず俺に相談すること。いいね?」 そう言って差し出してくれた手を。 「うんっ!」 僕はあの日のように、強く握った。

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