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翡翠(かわせみ)7 side志摩
「今日のおまえの仕事は、ここで俺の動きを見てること。それと、早く酒の名前を覚えることだ」
フロアの端っこには、大きなバーカウンターがあって。
僕はそこへと連れていかれた。
フロアには、相変わらず柔らかなピアノの音が揺蕩っている。
カウンターの向こう側には、さっきはいなかった背の高い細身の男の人がいた。
ベストとスラックスは同じだけど、みんなとは違う白いシャツを着ている。
首には、なにもついていない。
「バーテンダーの隆志さん。お酒のことは、この人に全部教えてもらいな。あ、ちなみに、隆志さんと受付の石関さんはβだから」
そう言われて。
僕たちとは違う姿に、納得した。
「志摩です。よろしくお願いします」
背筋を伸ばして、お辞儀すると。
隆志さんは無言のまま、ちょこっとだけ頭を下げた。
その時、耳馴染みのあるメロディーが聞こえてきて。
フロアの雰囲気が、一瞬にしてぴりっと引き締まった気がした。
「あ、もう開店の時間か」
涼介が、少し緩めてあったネクタイを締め直す。
「え…?」
「覚えときな。柊さんがショパンのノクターンを弾き終わったら、開店だ」
「ショパンの…ノクターン…」
いつも柊さんが大切そうに奏でているその曲のタイトルを
その時僕は初めて知った
その繊細で美しい音に誘われるように、フロアに散らばっていたホスト達が入り口のドアの前に集まってくる。
いつの間にか、那智さんもフロアにいた。
「…あんた、こっち」
涼介の後を追いかけようとしたら、隆志さんに引き留められる。
「え?」
隆志さんは、カウンターの向こう側、自分の隣を指差していた。
「え…え?」
「今日が初日なんだろ?だったら、ここから見学」
酷く聞き取りづらい、ボソボソした声でそう言われて。
「あ、は、はい」
僕はカウンターを回って、その中へと入り込む。
ピアノの音が途切れると、ドアが開いた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、Angel's ladderへ」
フロアには、ずっと控えめなピアノの音が流れている。
ソファは殆どが開店と同時に埋まっていて。
静かな話し声や密やかな笑い声が、此処彼処 から聞こえてくる。
だけど、こんなに人がたくさんいるのに、店内は穏やかで落ち着いていて。
ここが大人の社交場なんだってことを、見に染みて感じた。
それは、上質な柊さんのピアノが作り出す雰囲気が一番の要因かもしれなかった。
お母さんが勤めてた、騒がしくてタバコ臭いお店とは格が違う。
僕、ホントにここでやっていけるのかな…?
不安な心を抱えながら、僕はピアノを弾く柊さんの柔らかい微笑みを、ずっと見ていた。
柊さんは時々お客さんのリクエストを受けながら、開店からずっと、接客はせずにピアノを引き続けている。
柊さんのここでの仕事って、ホストじゃないのかな…?
「おい、こら。なにボケッとしてんだよ」
ぼんやりとそんなことを考えていると、突然頭を叩かれた。
「痛い…」
「柊さんばっか見てないで、俺の動きを見てろっての。ったく…柊さんみたいになろうなんて、100万年早ぇわ」
ぶつぶつ言いながら、涼介はじろりと俺を睨んで。
隆志さんの作ったカクテルを運んでいく。
僕はじんじんと痛む頭を擦りながら、テーブルとテーブルの間を忙しなく行き来する涼介へと視線を移した。
その時。
出入口のドアが開いて、新たなお客様が店に入ってきた。
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