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翡翠(かわせみ)8 side志摩

現れた男には、見覚えがあった。 最近よくニュースに出てる、史上最年少で入閣した斎藤伊織(さいとういおり)環境大臣だ。 何代か前の総理大臣を祖父に持ち、ゆくゆくは自分も総理大臣だろうと囁かれるエリート中のエリート議員で、しかもαのなかでもとびきり優秀らしい。 イケメン好きのお母さんがいつもテレビを見ながらキャーキャー騒いでたから、あんまりニュースを見ない僕でもばっちり覚えてる。 「斎藤先生、ようこそいらっしゃいました」 それまでフロアにはいなかった那智さんが現れて、その男に向かって深々と頭を下げた。 その様子からも、相当な上客であることがわかる。 「今夜も、楽しませてもらうよ」 「はい。どうぞこちらへ」 斎藤代議士は、多くの人を蕩かすような甘いマスクで微笑むと、那智さんに先導されてフロアの奥へと足を向ける。 一目で高級だとわかるスーツに身を包んだその人は、ゆったりとした足取りでテーブルの間を歩いていって。 その人が横を通るたび、そのテーブルにいるホストたちがチラッと視線を投げた。 ただそこにいるだけで、目を奪われる圧倒的な存在感を纏った人は、空いていた一番奥の、一番豪華なテーブルとソファに座る。 それと同時に、柊さんのピアノの音が止んで。 立ち上がり、僕がいるバーカウンターへと向かってきた。 「志摩」 「あ、はいっ」 「クリュッグのグラン・キュヴェとグラスを2つ。一番テーブル」 「へ…?」 そうして、呪文みたいな言葉を投げると、くるりと踵を返して斎藤代議士が座るテーブルへと歩いていく。 「え…なに…?」 「…シャンパンの名前だ。クリュッグのグラン・キュヴェ。あの客が必ず最初に飲むシャンパンだから、覚えておけ」 わけがわからなくて、おたおたしてる僕に、隆志さんがぼそりと教えてくれて。 トレイの上に、金色のラベルの貼られた黒いボトルと2つのシャンパングラスを乗せ、僕に手渡した。 「…初仕事。粗相のないようにな」 そうして、一番奥のテーブルを顎で指し示す。 「は、はい…」 てっきり今日は見学だと思ってたから、突然降って沸いた仕事に、手が震えた。 トレイに乗せたグラスが、カタカタと音を立てて。 絶対に倒さないようにと、腹に力を入れて、慎重にそろそろと歩く。 「お、お待たせ、いたしました…」 「ありがとう、志摩」 やっとの思いで一番奥のテーブルにたどり着くと。 柊さんがほわんと柔らかい微笑みで、僕を労ってくれた。 「おや…初めて見る顔だな。新人さんかな?」 斎藤代議士が、男の僕でもクラクラするような爽やかな笑顔を見せる。 そして、微かだけどすごくいい匂いがして。 ドキドキした。 「ええ。今日から入った志摩です。まだ当分フロアには出ないですけど、デビューしたら贔屓にしてやってくださいね」 「ええ?僕は柊しか指名しないって決めてるけど、他ならない君の頼みなら、聞かざるを得ないなぁ」 「ふふふ…志摩がデビューするのは、まだ一年以上先ですから、その頃には私なんてもう相手にされなくなってるかもしれませんよ?」 柊さんが優雅な手付きでシャンパンを開けると、代議士はグラスを持ち上げて傾けた。 「君が?まさか。もう何年もナンバーワンを張ってきた君を、長年通い詰めてようやく指名できるようになったんだよ?一年やそこらで、手放せるわけがない」 琥珀色の透明な液体が、ゆっくりとグラスに流れ込んでいく。 「…君も」 注ぎ終わると、今度は代議士がボトルを取り上げて、柊さんが持ち上げたグラスにそれを注いだ。 「乾杯」 代議士がグラスを目線の高さに上げ、柊さんが微笑んだままそのグラスに自分のを重ねる。 一連の二人の動きは、他の何かが入り込むような余地は少しもない、完璧なもので。 まるでお洒落な映画のワンシーンでも見ているような気分になった。 「じゃあ、私も斎藤先生に飽きられないようにもっと努力しないと」 「やめてくれ。また指名が取れなくなるじゃないか」 「ふふふ…」 柊さんが、妖艶に笑う。 初めて目にする、その妖しくも美しい姿に。 僕の心臓は、またドキドキと大きく鳴り響いた

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