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翡翠(かわせみ)9 side志摩

その後、一時間ほど斎藤代議士は滞在した。 帰り際には、僕にも手を振ってくれて。 その爽やかな笑顔に、またまたドキドキしてしまった。 柊さんはまたピアノを弾き出したけど、次の指名がすぐに入って。 その後は閉店まで柊さんがピアノを弾くことはなかった。 見学だけだと言われていた僕は、柊さんのテーブルに運んだのをきっかけに、あちこちのテーブルから呼ばれることになって。 緊張したまま、あたふたとフロアを歩き回ることになってしまい、閉店の頃には身も心もくたくたに疲れていた。 「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」 最後のお客さんを見送ると、力が抜けて。 その場に座り込んでしまった。 「よく頑張ったな、志摩。初日にしちゃ、上出来だぞ」 そんな僕を面白そうに見下ろしながら、那智さんが頭をぐしゃぐしゃっと撫でてきた。 「お疲れ」 「頑張ったね~」 「おつかれさん。ジュース、おごってやろうか?」 それをきっかけに、それまで僕には興味なさそうだった他のホストたちが、次々に声をかけてくれる。 「あ、ありがとう…ございます…」 その急な変化に戸惑いつつも、僕の心の中にはポカポカと温かいものが広がっていった。 なんとなくだけど 僕の居場所 出来た気がする… 「…お疲れ、志摩」 「あ、お疲れさまです、涼介」 「…助かった…おまえがいてくれて…」 涼介は、聞き取れないくらいの小さな声でぼそりと呟いて。 「え?」 「ほ、ほらっ!最後の掃除!やるぞっ!」 耳まで真っ赤になって、くるりと背中を向けた。 …もしかして… 自分の言ったことに照れてる…? 「はい」 その姿に、可愛いなぁと思いつつ。 込み上げる笑いを噛み殺しながら立ち上がると。 「お疲れさま、志摩」 柊さんが僕の方へ近づいてきた。 「お疲れさまです」 「どうだった?初日」 「…めちゃくちゃ緊張して、疲れました…」 「ふふ…でも、よくやってたよ。お客様もみんな褒めてたよ?俺も、すごく助かった」 「え…?柊さん、も…?」 「うん。志摩が運んでくると、お客様がみんな優しい顔になってたよ。だから、自然に雰囲気が柔らかくなって、話しやすかった」 「ほんと…ですか…?」 「うん」 お世辞かもしれなかったけど、優しく微笑んでくれて。 ほんの少しでもこの人の役に立てたことが、すごくすごく嬉しかった。 「俺、今日はこの後もまだちょっとあるから、志摩、先に帰ってくれる?帰りは、明け方近くになるかもしれないから、先に寝てていいから」 「あ…はい。お疲れさま、です…」 喜びでほわほわと浮き上がりそうな心を抱いていると、柊さんはそう言って、僕の頭をするりと撫でて。 片付け始めた他の従業員たちを横目に、フロアを出ていく。 「今日もアフターかぁ~。あの代議士先生だよな?あの人、最初からめちゃくちゃ柊さんに入れ込んでるもんな」 「あんな頻繁に買ってもらってんのに、番になる気はないのかな?俺だったら、さっさと噛んで!っておねだりするのに!」 「ばーか。相手は斎藤伊織だぜ?結婚ならともかく、番なんて…体のいい愛人だろ、それ。あんな格式の高い家が、こんなとこで働いてるΩを一族に加えるわけがねぇ。孕まされて、産んだら子どもは取り上げられるのがオチだぜ?」 「俺はそれでもいいよ。生活を保証してくれるんならな」 横から聞こえてきた言葉に、風船みたいに膨らんでた心が、パチンと弾けた気がした。 番…? 愛人…? あの人が柊さんを…? そんなの、ダメだ! 柊さんに愛人なんて似合わないよっ! こんな商売してたって、柊さんはなんか僕たちとちょっと違うっていうか… 品があって所作が綺麗で 上流社会にいても全然違和感ない気がするんだ 雑種の猫のなかに極上のペルシャ猫が混じっちゃった感じ なんでこんなとこにいるのか不思議にさえ思うもん いったい過去になにがあったんだろ…… 「おい、ボケッとすんな!掃除しろっ!」 ぼんやりと柊さんが消えた階段を見つめてると、涼介にモップの柄で背中をつつかれて。 「あ、はーい」 僕は慌ててそれを受け取った。 物音がして、目が覚めた。 薄く目を開くと、辺りはもう、ぼんやりと明るくて。 目だけを動かして、窓際へと視線を移す。 思った通りに、そこには。 カーテンを少しだけ開けて、朝焼けに染まっているだろう空を見上げる柊さんの姿があった。 今までも明け方近くに帰ってくることは何度もあった その時はいつも こうして窓際に立って外を眺めている まるで翼をもがれた鳥が 籠の中から自由な空を羨むように その姿は孤独というベールで厚く覆われているようで。 僕はいつも身動ぎも出来ずに、ただその姿をベッドの上から眺めているしかなかった。 そういうときは、柊さんは必ず左の手首を右手で握り締めて。 そうして、聞き取れないほどの微かな声で、密やかに秘めやかに、その言葉を紡ぐんだ。 「……れん…くん……」 朝の白い光を集めて宝石のように輝く雫が、一粒目尻から零れて。 僕はシーツをぎゅっと握り締めて、息を殺したままその孤独な天使を見つめていた。

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