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翡翠(かわせみ)10 side楓
その日は、朝から熱っぽく、ひどく身体が怠かった。
風邪でも引いたのかと思ってたけど、昼ごはんを食べた辺りから、身体の芯が火照り始めて。
なにもしていないのに、吐息に熱が混じりだした。
それでも風邪だと頑なに思い込んでいたけれど、志摩の言葉がそれを決定的にした。
「柊さん…今日はいつもよりもっと、いい匂いがする」
同じΩである志摩にさえ、わかるくらいのフェロモンが出ている。
ヒートが来てるのは、もう疑いようがなかった。
重いため息が出た。
今日は、店を休むしかない。
明らかなヒート状態のときは、店に出ることは禁じられている。
ヒート状態の強いフェロモンは、他のΩのヒートを誘発してしまう可能性があるからだ。
志摩が店に入って二週間、ようやく慣れてきた頃だから休みたくはなかったけど、こればっかりは仕方ない。
「柊さん?どうしたの?」
溜め息にすら、熱が混じっていて。
それにまた溜め息を吐いた俺を、志摩が心配そうに覗き込む。
反射的に、身を引いて離れた。
「あ…」
志摩の瞳に、ぱっと傷付いた色が広がったのがわかったけど、それに構うことは出来なかった。
まずい…
この前のヒートは抑えられてたから、今度の抑制剤は大丈夫だろうと気が緩んでいた
とにかく、今は志摩を俺から引き離さないと…
「志摩…俺、ヒートが来たみたい」
「えっ!?」
俺の言葉に、志摩が大きな目を更に大きく見開く。
ほっそりとした手がぎゅっと拳を握って、怯えるように胸の上に置かれる。
身体は、小刻みに震えていて。
その様子から、志摩がヒートに対して恐怖に近い感情を持っていることがわかる。
それはそうだろう
初めて訪れたヒートで
義父になるはずだった人に襲われ
親友だと思った人に裏切られ
見知らぬ人に監禁されていたんだから
だったら尚更
ヒート中の俺の傍にいさせちゃいけない
あんな姿
絶対に見せられない
「…今、俺の側にいると志摩も影響を受けるかもしれない。他のΩのフェロモンに当てられると、強制的にヒートが引き起こされることがあるって、学校で習ったでしょ?」
「で、でもっ…柊さん、ちゃんと抑制剤飲んでるんじゃ…」
「うん、そうなんだけどね…俺はどんな抑制剤でも、しばらく服用を続けると効かなくなっちゃうんだ」
「え…」
「だから、ヒートが終わるまで誉先生のとこに行ってて欲しい」
そう言うと、志摩の瞳が不安げに揺れる。
「…ヒートが終わったら…またここに戻ってきても、いい…?」
震える声でそう問い掛ける彼に、微笑みながら頷くと。
志摩は一度目を閉じ、深呼吸をして。
きゅっと唇を引き結んだ。
「わかった。でも、柊さんは一人で大丈夫なの?」
そうして、自分のことよりも俺の心配をしてくれる。
見た目は頼りなさげだけど
志摩は強い
この子を拾ってから
俺の方がこの子の強さに救われている気がする
俺は…
弱いから…
「うん、大丈夫。俺は送っていけないから、誉先生に迎えに来てもらおう。一週間分の荷物、まとめておいで」
「一人で行けるよ」
「でも…」
「心配しないで。道はちゃんと覚えてるから。それに、誉先生まだ診察中だし、わざわざ来てもらうのも悪いもん。先生には、僕は今のところ飲んでる抑制剤が効いてるみたいだから、一人で出歩いても大丈夫だって言われてるし」
「でも…一人じゃ、何かあったら危険だし…」
「大丈夫っ!僕、これでも足は早い方なんだ!ヤバくなったら、先生のとこへ逃げ込むから!」
意志の強い眼差しで。
でも、ふわりと可愛らしく微笑むと。
志摩はバッグに自分の服を詰め始めた。
幼い頃に父を亡くし
母とずっと二人で暮らしていたと言ってた
昼も夜も働く母を
ずっと一人で待っていたと
だから志摩は強い
孤独を知っているから
幼い頃に父を亡くしたのは同じだけど
俺は弱い
それはずっと守られていたから
ずっと
あの大きな腕に…
『…楓…』
頭の奥で響いた声に
身体が甘く疼いた
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