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翡翠(かわせみ)16 side楓

「へっ…?」 思ってもなかった言葉が返ってきて。 自分でも聞いたことないようなマヌケな声が出た。 「…伊織…さん…?」 「そう。何度も何度も、伊織さん好き、伊織さん気持ちいいって、そう言ってくれたよ。いやぁ、今思い出しても堪らないなぁ、君の甘くてとっても可愛い声!また勃っちゃいそうだよ!」 先生は、ぱあっと子どもみたいに顔を綻ばせると、嬉しそうな声で俺の腹にぐいぐいと硬いものを押し付けてきて。 思わず腰を引いて、距離を取る。 伊織さんって… ぜんっぜんそんな記憶ないんだけどっ!! 「あ、あのっ…先生、それホント…」 「ああっ!それ!ヒートが終わった途端に、先生、先生って!なぜ!?どうして!?どうして急に他人行儀に戻ってしまったんだ!」 「え、いや、他人行儀なわけでは…」 「伊織!二人っきりのときは、伊織って呼んでくれ!いいな!?」 「え?あ…は、はい…」 「さぁっ!」 「へっ!?」 「早く!僕の名前を呼びたまえ!」 ものすごい勢いで、そうせがまれて。 「い、伊織…さん…」 違和感しかないその名前を、しぶしぶ口にすると。 先生…もとい、伊織さんは見たこともない無邪気な顔で、嬉そうに笑った。 その笑顔に、きゅんっと胸が小さな音を立てる。 俺よりずっと年上の人にこんなこというと失礼かもしれないけど…この人、可愛い…かも…? 「身体は、大丈夫かい?君のフェロモンに当てられて、僕も暴走してしまって…無茶をさせてしまった。どこか痛いところとかはないかな?」 ぼんやりと伊織さんを見返していると、不意に心配そうに眉を寄せられて。 「あ、いえ。痛いところは…」 そう言いつつ、自分の身体を見下ろしてみると、身体中に散った紅い痕が目に飛び込んできた。 「っ…これっ…」 「…すまない。自分でも訳がわからなくなってね。気が付いたらそんなに…Ωのヒートに出会したことは初めてではなかったのだけど、ここまで我を忘れたのは初めてで…本当にすまない」 怒られた子どものように、しょんぼりと肩を落とす姿がまた可愛らしく見えて。 無意識に口元が綻ぶのを感じた。 「いえ、全部俺のせいですから…伊織さんが謝ることなんてないです。俺の方こそ、すみませんでした。あんなものに付き合っていただいただけでも、ありがたいです」 頭を下げると、驚いたように目を見開いて。 ほんの少しだけ、口をへの字に曲げる。 そのままなにか言いたげに俺を見つめたけれど、一度目を伏せるとふーっと長い息を吐いた。 「…柊、お腹空かないかい?一週間のヒートの間、君は殆ど食べ物を口にしていないから」 「…そう言われれば…」 それまでなんともなかったのに、いつもの大人の余裕たっぷりの柔らかい笑顔でそう言われると、急にお腹がペコペコなのを自覚する。 それを待ってたかのように、お腹がぐぅ~っと大きな音で鳴った。 「ぶっ…」 「す、すみません…」 あまりに大きな音で、恥ずかしさに耳まで一瞬で熱くなる。 「いや、性欲が満たされれば次は食欲を満たしたくなる。人間として当然の欲求だ。よし、僕がなにか作ろう」 クスクスと声を立てて笑いながら、俺のおでこに触れるだけのキスをして。 伊織さんは起き上がった。 「あ、いえっ…俺がっ…」 作ります、と言おうとしたけど、身体を起こした瞬間、ひどい目眩に教われて。 そのまま、またベッドへ突っ伏してしまう。 「あぁ、無理してはダメだ。君は体力が落ちきっている。ここは僕に任せて」 「でも…」 「こうみえても、実は料理は趣味のひとつでね。まぁ、君は黙って見ていたまえ」 優しい腕が、俺を優しく包み込んで。 お姫様抱っこで抱えられ、ソファへと運ばれた。 「すみません…」 「なにを謝ることがある?料理は趣味だと言ったろう。なにか食べられないものはあるかい?」 「いえ、なんでも大丈夫です」 「よし。じゃあいいこで待っておいで」 そう言って、今度は唇にまた触れるだけのキスをして。 俺に毛布を掛け、自分は下着とシャツだけを身に付けると、軽やかな足取りで冷蔵庫へ向かった。 「さぁて、食材はなにがあるかな?うーん…一週間もほったらかしだったからなぁ…お?ほうれん草はかろうじて大丈夫そうだな。これと…ベーコンもあるな…あとは、牛乳と…」 本当に楽しそうに冷蔵庫の中を物色する伊織さんの横顔を眺めていると。 もうずっと感じることのなかった、穏やかで優しいなにかが胸を満たしていくのを感じた。

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