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翡翠(かわせみ)18 side楓

車は、誉さんの診療所の前に静かに止まった。 「はい、着いたよ」 「…ありがとう、ございます…」 どんな顔をしていいかわからずに、俯いたまま礼を述べて。 車のドアに手を掛けたとき、反対の手首を捕らえられた。 「…困らせて、すまない」 「…いえ…」 『番になって欲しい』 向けられた、熱くて真摯な眼差しに。 俺はYESともNOとも答えられずに、唇を噛んだ。 一生誰とも番にならない。 もうとっくに、心に硬く決めているけれど。 嘘偽りのない、まっすぐなその言葉を、即座に拒否することができなかった。 そんな風に誰かに見つめられたのは、蓮くん以外にいなくて。 ぐらぐらと、心が揺れているのが自分でもわかる。 伊織さんはそんな俺の心を見抜いていたのか、それ以上のことはなにも言わず、何事もなかったかのようにパスタを平らげた。 食べ終わると、仕事に戻るという伊織さんの車に乗せられた。 ヒートが終わったら必ず診療所へ連れてこいと那智さんに脅されていると、伊織さんは笑った。 「君の店のオーナーは、とても懐の深い優しい人だな。見た目はちょっと怖いが」 おどけたようにそう言った伊織さんに、俺はどう答えたらいいかわからなくて。 俯いたまま上げられない頭を、伊織さんは信号待ちの度に優しく撫でた。 「答えは、急がない。元々、誰とも番う気なんかなかったんだ。君自身が納得のいく結論が出るまで、俺はいくらでも待つから」 優しく諭すような声音で微笑んだ伊織さんに、頷くだけで精一杯だった。 また頭を撫でた手が、そのまま首に着けっぱなしのチョーカーへと降りてきて。 優しい力で、首を引き寄せられる。 そっと目蓋を下ろすと、柔らかい唇が重なった。 「…また、店で会えるかな?」 黒曜石の瞳が、煌めきながら俺を見つめる。 「…はい。お待ちしてます」 ひとつ息を吸って、営業用の笑顔を貼り付けると。 自然と言葉が零れた。 伊織さんは、少し寂しそうに眉を下げ、もう一度俺にキスをする。 「いろいろと…本当にありがとうございました」 「いや。僕は楽しかったよ。こちらこそ、ありがとう」 冗談とも本気とも取れる言葉を受け流しつつ、車を降りた。 走り去る車が曲がり角で見えなくなるまで見送って、大きく息を吐き出し。 都会の真ん中にありながらも、時代から取り残されたような古めかしいその診療所のドアを開ける。 立て付けの悪いドアが、ギィ…っと耳障りな音を立てた。 今は昼休憩の時間だから、待合室には人の姿はない。 靴を脱ぎ、スリッパを靴箱から出してると、奥からパタパタと足音が近付いてきた。 「すみませ~ん!今、先生はお昼寝中で……っ、あぁっ!柊さんっ!」 時間外の患者と勘違いしたのか、謝りながら現れた志摩は、俺を見るなり嬉しそうに顔を綻ばせて。 体当たりするように、抱きついてきた。 「おかえりなさいっ!」 胸の中に飛び込んできたぬくもりに、じわりと胸が熱くなる。 「ただいま、志摩」 俺より少しだけ低いその頭をそっと撫でると、猫みたいに顔を俺の肩にすり寄せてきた。 「柊っ!?おまえ、無事か!?」 志摩の声が聞こえたのか、那智さんも奥から現れる。 「無事かって…なにが」 「ちょっと、見せてみろっ!」 志摩とは違い、なぜか焦ったような那智さんは、俺から志摩を引き離し、ペタペタと身体中を両手で撫で回した。 そうして最後に、首に巻いたチョーカーがガッチリと俺のうなじをガードしているのを確認すると、ほぅっと深く息を吐き出した。 「…勝手なことして、悪かった」 俺の肩に掛けられた指に、ぎゅっと力が入る。 「ううん…ありがとう」 「え…?」 「…夢を…見せてくれて、ありがとう…」 そう、言葉にすると。 突然目の奥が熱くなって、堪える間もなく涙が零れた。 「柊っ!?え?ちょっと!どうしたんだよ、おまえっ!?」 「柊さん!?どうしたの!?どっか痛い!?」 「あー、くっそ!やっぱ、あんなやつに頼むんじゃなかった!」 「…違う…そうじゃ、なくて…」 「え…?じゃあ、どうした…?」 涙は、止まることを知らないように、後から後から溢れて。 「ごめん…なんでも、ないから…」 止める術を持たないまま、いつまでも涙は流れ続けた。

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