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翡翠(かわせみ)21 side楓

「柊さん、ご指名です」 鍵盤から指を離すと、タイミングを見計らっていたように声が掛かった。 あれから、体力回復のために更に2日間休ませてもらって。 約10日ぶりの出勤日。 顔を上げ、店内をぐるりと見渡し。 一番奥のテーブルに思ってた通りの姿を見つけた。 「志摩。クリュッグのグラン・キュヴェとグラスを2つ。一番テーブルへ持ってきて」 「はいっ!」 今日はしっかりと返事をした志摩に、思わず笑みが零れつつ。 ピアノの蓋を閉じて、大きく息を吐き出して立ち上がり、目を細めて俺を正面から見つめるその人の元へゆっくりと歩み寄る。 「いらっしゃいませ、斎藤さま。お待ちしておりました」 膝を折り、仰々しく頭を下げると。 「久しぶりだね、柊」 柔らかい微笑みで見つめられて、少しだけ体温が上がった気がした。 「…先日は、見苦しいとこをお見せして、申し訳ありませんでした」 伊織さんの横に腰掛け、志摩がまだカウンターのところでシャンパンを用意しているのを横目で確認して、小声で謝る。 なのに。 「さぁ…なんのことかわからないな。君の見苦しい姿なんて見たことがないよ。可愛らしいところなら、たくさん見せてもらったけどね」 お茶目なウインクまで付けて、そう言われて。 頬が熱くなるのを感じた。 運ばれてきたシャンパンをグラスに注ぐと、伊織さんも俺のグラスに注いでくれて。 「乾杯」 いつものように、静かにグラスを合わせる。 いつもの、ルーティーン。 だけど、今日はいつもよりはほんの少しだけ、座る距離が近くなっている気がした。 「この店には、やっぱり君のピアノがあってこそだな。君のピアノの音がないここは、酷く味気なかったよ」 「ありがとうございます」 グラスのなかの琥珀色の液体を半分ほど飲み干した伊織さんが、そう言って優しく微笑む。 もしかして、昨日も来てくれていたのだろうか。 「ピアノはいつから?素人にしては、ずいぶんレベルが高い。最初に店に来たときには、君のことをプロのピアニストだと本気で思ったんだ。あれだけ弾けるようになるには、相当長いこと弾いてるんだろう?」 いつもは俺のプライベートなことを質問したりはしないのに。 今日は珍しくそんなことを聞いてくる。 「さぁ…物心ついたときには弾いていたので、いつから、というのははっきりとはわからないんです」 だから、いつもならはぐらかす筈のそんな質問も、素直に答えてしまった。 やはり、少し距離が近付いている気がする。 いけない。 「そうなの?すごいな」 「すごくはないですけど…私にとっては、それが当たり前だったので」 「…プロを目指そうとは、思わなかった?」 もう少し突っ込まれて。 俺は答えを濁すように微笑んだ。 それだけで、これ以上この話をする意思がないことを伊織さんは瞬時に悟ってくれたようで。 口をつぐむと、その先の質問を飲み下すように、シャンパンを口に運んだ。

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