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翡翠(かわせみ)23 side楓

店が終わり、志摩に遅くなることを伝えると。  ちょっと残念そうな顔になった。 「あんまり無理しないで…早く帰ってきてくださいね?」 でもそれを隠して、少し大人びたようなことを言うのが愛おしくて。 「わかってる。ああ、そうだ。明日の昼は買い物に出掛けようか?夏服を買わないとね」 もうすぐ季節が変わるから新しい服を買ってあげようと思い付くと、嬉しそうにぱっと顔を輝かせてぶんぶん頷かれて。 また新たな愛おしさが湧く。 「じゃあ、行きたいとこ考えておいて?」 「うん!」 まるで子犬が尻尾を振ってるみたいな志摩に見送られつつ店を出て、地下駐車場に止まってたいつもの車に乗り込んだ。 ドアが閉まると、行き先も告げないうちに滑るように車は走り出す。 不思議だな… 今まで誰かが傍にいることは苦手だった筈なのに 志摩が傍にいるとすごく癒される きっと本当に強い子なんだろう 辛い経験をしているのに少しも曲がったところがない 酷く傷つけられた母親のことだって 今でもすごく案じているし あの時… 俺に志摩ほどの強さがあれば この現在(いま)は違ったものになっていたんだろうか… 不意に、あの時の暗い影を落とした龍の顔が浮かんできて。 急激に、手足の先が冷えていく。 ダメだ 考えるな 考えても もう時間は戻らないんだから 呪文のようにそう繰り返していると、車が見慣れたホテルの玄関先へと滑り込んだ。 古い記憶を振り切るために、頭を強く振って。 車を降りる。 フロントは通らず、エレベーターに乗って。 最上階に近い、慣れたボタンを押し、壁に寄りかかって足元へ視線を落とすと、視界の端に指先が小刻みに震えてるのが写って。 反射的に顔を上げ、祈るような気持ちでエレベーターの階数表示を見る。 早く… 早くあの人のところへ… 静かにドアが開くと、知らず駆け出していた。 このホテルのこのフロアは、うちの店が年間を通して借しきっているから、誰かとすれ違うこともない。 それをいいことに、子どものように駆けて。 一番奥のドアを、ポケットに入れていたカードキーで開く。 中はもう灯りが点いていて。 微かにレモングラスの香りが漂っていた。 「柊?」 奥から聞こえてきた声に、慌てて乱れた息を整えようと深呼吸していると。 現れた伊織さんが、俺の顔を見て眉をひそめる。 「どうした?顔色が悪い」 「いえ、なんでも…」 「体調がまだ不十分なら、今日は帰った方が…」 頬に触れようと伸ばされた手を、掴んで。 気が付いたら、自分からその大きな胸の中へと飛び込んでいた。 伊織さんはピクッと小さく身動ぎして。 でもすぐに、真綿で包み込むようにそっと抱き締めてくれる。 そうして、子どもをあやすようにポンポンと背中を撫でてくれた。 「よしよし」 「…子ども扱いしないでください」 「はははっ、ごめんごめん」 謝りながらも、その手は止まることはなくて。 とくんとくんと、規則正しく刻む彼の鼓動を聞きながら、背中に回した腕に力を込めた。

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