138 / 566

翡翠(かわせみ)24 side楓

シャワーを浴び終えて戻ると。 伊織さんはソファに座り、膝の上に置いたノートパソコンにすごい勢いでなにかを打ち込んでいた。 それを邪魔しないように、そーっとベッドの端に腰掛け、小さく息を吐く。 勢いでこの人の腕に飛び込んでしまったけど。 シャワーで汗を流すのと同時に過去の残像も流れていくと、冷静な自分が戻ってきて。 途端、考えもなくここへ来てしまったことへの後悔がじわじわと(さざなみ)のように押し寄せてきた。 やっぱり無理だ 俺がこの人の番になるなんて 伊織さんの家は三代続く代議士の家系で 由緒ある家柄には必ず正統な跡取りが必要となる 九条の家がそうであるように その時点で 子どもが産める保証のない俺は 候補にすら上がってはいけないんだ それに彼と番になることになれば 俺の素性も調べられるだろう もうこれ以上 あの家に迷惑かけるわけにはいかない そんなこと考えなくてもわかることなのに あの場ですぐに断らなかった自分を呪いたい あの人の好意を 素直に受け入れたいと思ってしまった 弱虫で愚かな自分を 不意に、左の手首に痛みを感じて。 視線をそこへ落とすと、爪が食い込むほどの強さで自分の右手が握り締めていた。 大切なものを失ってしまった 傷だらけのその場所を 「…っ…」 「ごめん、柊」 うっかり名前を口にしそうになって。 唇を噛んで堪えていると、突然顎を掴まれ、上を向かされて。 至近距離で濡れたように光る黒曜石に見つめられ、ドキッと心臓が跳ねた。 「ほったらかしにして…怒ってる?」 不安げに揺れる眼差しに、小さく首を振る。 「いえ…あの…」 紡ごうとした言葉は、重ねられた唇に吸い込まれた。 「んっ…」 まるで俺の言葉を飲み込むだけのような、触れるだけのキス。 「話は、後。今は…君を抱きたい」 もう欲にまみれた熱い瞳で、直接的な言葉で誘われて。 身体がカッと熱くなる。 「…伊織、さん…」 言わなければ この人にこれ以上の無意味な期待を持たせないように そう頭ではわかっているのに、言葉は喉に引っ掛かったままで出てこない。 戸惑っているうちに、肩を軽く押されてベッドへと転がされた。 「あ、あのっ…伊織さんっ…」 焦って言葉を紡ごうとした唇に、伊織さんの人差し指が触れる。 「話は後だと言ったろう?」 「でもっ…」 「ダメだよ。僕は君を一晩買ったんだから。今夜は、僕をたっぷり楽しませてくれないと」 そんな横暴な台詞を吐くくせに、その瞳の奥は優しい光を湛えていて。 その光がまるで免罪符のように 俺の固まった心を優しく蕩かしてくれる 「…今はまだ、なにも言わないで。ただ、僕を感じて…?」 夜空の星が降ってくるように、瞳が近づいてくる。 「…はい…」 そっと目を閉じると、柔らかな熱い唇が重なって。 噎せかえるようなレモングラスの香りに包まれた。

ともだちにシェアしよう!