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翡翠(かわせみ)25 side蓮
誰かに呼ばれたような気がして。
顔を上げると、窓の外に広がる初夏の濃い青空が目に飛び込んできた。
その青に誘われるように、ソファから立ち上がる。
「ちょっ…どこ行くの!?」
読んでいた本をテーブルに置き、足音を忍ばせてドアへ向かっていると。
PCに何かを打ち込みながら誰かと電話していたはずの和哉が、目敏く声を掛けてきた。
「ちょっと散歩。昼メシは外で食べるから、俺のことは気にすんな」
「は!?なんで急に!?今日は久しぶりに休みが重なったんだし、一緒に食べようってせっかく…」
「いいから、電話。休みなのに掛かってくるってことは、急ぎの仕事なんだろ?」
責めるような口調を遮り、顎をしゃくって促すと、和哉は子どもみたいに唇を尖らせて。
それでも渋々って顔で携帯を顎に挟み直す。
「Sorry…」
ボソボソと話す声とカタカタとキーボードを叩く音を背中に聞きながら、何気なくキッチンを覗くと、もう切り終えたジャガイモや人参が鍋に入ってるのがチラリと見えて。
ほんの少しの罪悪感を覚えつつ、部屋を出た。
外の通りへ出ると、眩しい陽の光が目を焼いて。
反射的に閉じた目蓋の裏に浮かんだのは。
決して忘れられない
儚い幻のような微笑み
「…楓…おまえが、俺を呼んだのか…?」
久しく口にすることのなかった愛しい名を唇に乗せれば。
胸の奥底に沈んでいた傷痕が、ずきりと痛んだ。
『龍っ…楓は、どうしてる!?元気にしてるのか!?』
父に無理やりアメリカに送られた後。
ようやく龍に連絡が取れたのは、家を離れて1ヶ月も経った頃だった。
眠らされている間に携帯は取り上げられてしまったため、楓はおろか、龍や春海たちにも直接連絡することが出来なくなって。
四六時中、俺を監視するように傍にくっついてる佐久間の目をなんとか盗み、自宅へ電話をしてみたものの、小夜さんではなく知らない使用人が出て「誰にもお取り次ぎしてはいけないと旦那様よりきつく言いつかっております」とけんもほろろに電話を切られた。
その後、何度掛け直しても同じ台詞で拒否されて。
日毎に不安が募っていくなか、1ヶ月後にようやく龍が直接電話に出たのだった。
『…兄さん』
電話口の声は、酷く硬かった。
だけど、そんなことに気付く余裕はなかった。
『楓はっ!?頼む、楓に代わってくれ!』
とにかく、楓の声が聞きたかった。
声だけでいい、元気にしていることさえわかればそれでよかった。
その時の俺は、楓は家に戻っていると信じて疑わなかった。
父が楓を苦しめることをするはずがないと、必ず守ってくれると、そう信じていた。
俺の知っている父は、俺や龍ではなく、楓にこそ愛情の籠った眼差しを向けていたのだから。
『…楓なら、いないよ』
だから、いつもより数段低い声で聞こえてきた言葉が、一瞬頭に入ってこなかった。
『…いない…?』
『…黙って、出ていったよ』
『出ていったって…なに?どういうことだよっ!?』
『…沖縄の学校に転校することが決まってたから…それが嫌だったんじゃない?』
『…は…?』
龍から発せられる言葉を、頭の中でうまく処理できなくて。
混乱、した。
『ちょっと待て…沖縄ってなんだよ…?』
『…お父さんが決めたんだ。だってそうだろ?この家にはαの俺がいる。発情期がきちゃったΩを、一緒には置いておけないってさ』
『バカなっ!なんでそうなるっ!?』
『怒鳴んないでよ。俺に怒鳴ったって仕方ないだろ?とにかく、楓はここにはもういないから。兄さんは精々、そっちで一人で頑張って』
『え!?あ、おい、龍っ…!』
冷たく突き放すように、そう言って。
俺の制止も聞かず、あっさりと電話は切れた。
耳に当てたままの受話器から無情に聞こえてくる機械音を聞きながら。
身体中の血が凍りついていくような気がした。
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