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翡翠(かわせみ)28 side蓮
「さぁ、菊池さんどうぞ!」
俺が買ってきたBudweiserを、和哉はやたらと上機嫌で菊池のグラスに注いだ。
「長旅、お疲れさまでした。乾杯!」
俺のグラスにはおざなりに注いで。
声も高らかに、乾杯の音頭を取る。
「乾杯」
菊池は若干の苦笑を浮かべながら、和哉のグラスに自分のを合わせた。
俺はその光景を冷めた心で見ながら、グラスを合わせることはせずに口に運んだ。
目の前には、普段は食卓に上らないような豪華な夕食。
オードブルやサラダ、白身魚のムニエルにローストビーフ、おまけみたいにカレーもある。
…なんだ、これ…
「なんだか申し訳ありません。少し顔を出すだけのつもりが、夕飯までご馳走になってしまって」
「いえいえ。せっかくですから、みんなで食べた方が賑やかで楽しいでしょう?」
「…わざわざ、遠い日本から夕飯を食べに、こんなところへ来たんですか?」
和哉の浮わついた声が、耳障りで。
俺は、わざと硬い声で二人の会話を遮った。
「蓮さんっ…!」
棘を隠そうともしない俺の声に、和哉は眉を吊り上げたけど。
菊池は面白そうに口元に微笑みを浮かべる。
そういうところ、ムカつく
「…いいえ。もちろん、仕事ですよ?」
「だったら…」
「その仕事のなかには、あなたを口説き落とすってミッションも、含まれていますがね」
余裕綽々な微笑みを向けられて。
つい、大きな溜め息が口を吐いて出た。
「…それは、もうとっくにお断りしたはずですが」
「何度断られても、諦めませんよ。うちの命運をかけたホテルを任せられるのは、あなたしかいない。これはもう、私の中では決定事項です」
「そんな、勝手な…あなたは、私のことを買い被りすぎです。私には、そんな力はありませんよ」
「いいえ。僕は、一度だけ、日本であなたを見たことがあります。あれは確か…四菱電気の会長の誕生会だった。その時あなたはまだ高校生で、九条会長のお供でしたが…一流の経済人たちに混じって、堂々と意見を交わし合う姿に驚愕したものです。未来の日本の経済を動かすような人とは、こういうものかと。本当はその時に僕も話しかけたかったんですが、あなたの周りにはずっと誰かがいて、末席の僕は近付くことすら出来なかった。羨望の眼差しで、手を伸ばしても届かないくらい遠いあなたを見ることしか許されなかったんです」
真っ直ぐで真剣な眼差しで見つめられて、俺はたじろいだ。
だが、嫌な気持ちはしなかった。
かつての自分をそんな風に見ていた人がいるなんて、考えてもいなかったし、それは素直に嬉しいと思えたから。
「だから、偶然にもあのホテルであなたを見つけたときは、正直驚きました。あなたが九条家を捨てたことは聞いていましたが、まさかこんなところで誰かの下で働いているなんて、と。でも、しばらくあなたを観察していたら、あなたはやっぱりあなただった。どんな泥の中に埋もれていても、一級品の真珠なんですよ。その輝きは、どんな場所にいても決して失われない。いや、あの頃よりももっと輝きを増したように思います。それは、九条という鎧を捨てた、あなた自身の輝きだ。だから…僕はどうしても、あなたが欲しいんです。九条蓮という、世界にたった一つの真珠が」
熱烈な口説き文句のような菊池の言葉と熱い眼差しが、俺を突き刺して。
思わず、逃げるように視線を落とした。
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