143 / 566

翡翠(かわせみ)29 side蓮

「…正直、破格の条件を提示してあるはずです。その他に、なにが不満で?」 逃れることは許さないとでも言いたげな強い口調に、もう一度顔を上げた。 「あなたが首を縦に振る条件を教えてください。それを、用意する覚悟はあります。じゃなきゃ、わざわざアメリカまであなたを口説き落としにきたりしません」 菊池は怖いくらいに真剣で。 口先だけでの適当な理由では決して引き下がらないだろうと、わかった。 目を閉じ、大きく息を吐く。 「…条件には、不満はありません。寧ろ、俺にはもったいないくらいだ」 そうして、まっすぐにその瞳を見返した。 「では…」 「でも、俺は日本には戻りません」 「蓮さんっ…!」 また、和哉が叫びのような声をあげる。 それに面白そうな視線を投げ。 菊池は両手を組んでそこへ顎を乗せ、目を細めて俺の瞳の奥を覗き込んだ。 「それは…弟くんのため?」 「…っ…」 思わず、息を飲んだ。 「自分が戻ると、ご実家が混乱する…と?」 そこまで読まれてしまっているのかと、半ば諦めのようなものを感じて。 俺は、首をわずかに縦に振る。 「…俺は、九条を捨てた人間ですから」 自分勝手に生きている俺が 龍の足枷になってはいけない 「ふっ…」 瞬間、菊池が何故が可笑しそうに笑った。 「…なにがおかしい?」 その反応に、一瞬カッと頭に血が上る。 「いや…君はその出自には似合わずに謙虚な人だと思っていたんだけど、本当はずいぶんな自信家だったんだなと思ってね」 「は?」 「だってそうでしょう?…今でも、自分が九条を動かすほどの影響力のある人間だと思っている、ということでしょう?」 でも、痛いところを突かれて。 返す言葉を失った。 「あなたはショックかもしれませんが、ぶっちゃけ、今のあなたが日本にいようがいまいが、九条にはなんの影響も及ぼしませんよ。あなたの弟さんは、あなたの存在に左右されるほど脆弱な山の頂点にいるような人ではない。この間お見かけしましたが、もうすでに帝王の風格さえおありでした。つまり、あの家とはなんの関係もないちっぽけな男が日本にいたところで、どうでもいいってことです」 「あんた、失礼なっ!」 「和哉」 椅子を倒す勢いで立ち上がり、目を剥いて激昂する和哉の手首を取る。 「おまえは黙ってろ」 口から出たのは、自分でも驚くほど低い声で。 掴んでいた和哉の腕が、ビクッと震えた。 菊池が、笑みを深める。 「さぁ、あなたを縛る鎖は失くなった。私の元で、存分にその大きな翼を羽ばたかせてください」 窓から階下を覗くと、俺の視線に気付いたのか、タクシーに乗り込もうとしていた菊池が振り返って、満面の笑みで手を振った。 「蓮さん、どうするの?」 それを無視して、黙ってその姿を見送っていると。 そっと背中に和哉がもたれ掛かってきた。 「…和哉」 「ん?」 「日本に戻れば…俺は楓を探す。いや、探さずにはいられないだろう。それでもいいのか?」 空気が震えて。 背中の体温がすっと離れていく。 「蓮さん…あいつはもう…」 「楓は、生きてる」 確信を込めて呟き、振り向くと。 和哉は右手を胸の上で強く握りしめ、唇を噛んで俺を仰視していた。 「死んでるよ」 「生きている。俺にはわかる。あいつは…俺だけの運命だから」 ひゅっと、和哉の喉が鳴る。 そのまま長い沈黙が落ちて。 カタカタと震える和哉の唇が開いたのは、ずいぶん時間が経ってからだった。 「…それでも。俺は見たいんだ。あの国で、大きな翼を広げるミカエルを」

ともだちにシェアしよう!