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翡翠(かわせみ)30 side楓

「じゃあ、後で店でね」 「うん。デート、楽しんできて?伊織先生によろしく」 なぜか楽しそうな志摩に曖昧に微笑みを返して。 「いってきます」 俺は玄関を出た。 閉めたドアに背中を預け、手の中にある携帯の画面を開くと『下で待ってる』という彼からのメッセージ。 「デート…か…」 思わず、苦笑が漏れる。 なにやってんだろ、俺は 番になる気もない人の誘いに乗って 客と勝手に外で会ってはいけないという、今まで破ったことのなかった店のルールを破ろうとしてる 頭の隅ではこんなことやるべきじゃないって わかってるはずなのに… 「はぁ…」 大きく息を吐き出して。 それでも俺の足は、待っている人の元へと動き出した。 マンションのエントランスを出ると、目の前には赤い外国製の車が止まっていて。 俺が姿を現すと同時に窓が開く。 「やぁ、柊。おはよう」 爽やかに挨拶をくれたその人に頭を下げ、回り込んで助手席に乗り込んだ。 「わざわざ迎えに来てもらってすみません」 「いや、俺がどうしても来たかったからいいんだよ。なにせ、数多の君を慕う男たちの中で、自宅まで迎えに来られるのは僕だけだからね」 そう言って、嬉しそうに笑った伊織さんには、曖昧に笑顔を返しておく。 その視線が、チラリと首を覆うチョーカーを掠めて。 一瞬だけ眉が悲しそうに下がったことには、気が付かない振りをした。 「さてと。どこへ行こうか?」 「私は、どこでも…伊織さんにお任せします」 「そう?じゃあ僕の大好きなところでいい?」 「はい」 小さく頷くと、伊織さんは楽しそうに鼻唄を歌いながら車を出した。 てっきりホテルに行くんだと思ってたのに。 伊織さんが連れてきたのは動物園だった。 「ここ…が、大好きなところ、ですか…?」 「そう。意外?」 「…はい」 「だよね」 ふふふ…って、まるで秘密をこっそり囁くように笑う。 「母方の実家がこの近くでね。父が選挙のときはいつも預けられて、ここに散歩代わりに連れてこられたんだ。いわば、庭みたいなものだ」 「そう、なんですか…」 「だから、僕の幼い頃の楽しい思い出がたくさん詰め込まれた場所に、君との思い出を新たに加えたかった」 そうして、熱の籠ったまっすぐな眼差しで見つめられて。 思わず、目を逸らした。 「柊」 伸びてきた手が、頬に触れる。 「僕を見て」 そう促され、おずおずと視線を戻すと。 熱いけれど、でもとても優しい瞳が俺を包み込むように見つめていた。 とくん、と。 胸が疼く。 「…行こうか」 頬に添えられた手が、するりと降りて。 俺の手をそっと握る。 「…はい」 気が付いたら、自分からその手に指を絡めていた。

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