144 / 566
翡翠(かわせみ)30 side楓
「じゃあ、後で店でね」
「うん。デート、楽しんできて?伊織先生によろしく」
なぜか楽しそうな志摩に曖昧に微笑みを返して。
「いってきます」
俺は玄関を出た。
閉めたドアに背中を預け、手の中にある携帯の画面を開くと『下で待ってる』という彼からのメッセージ。
「デート…か…」
思わず、苦笑が漏れる。
なにやってんだろ、俺は
番になる気もない人の誘いに乗って
客と勝手に外で会ってはいけないという、今まで破ったことのなかった店のルールを破ろうとしてる
頭の隅ではこんなことやるべきじゃないって
わかってるはずなのに…
「はぁ…」
大きく息を吐き出して。
それでも俺の足は、待っている人の元へと動き出した。
マンションのエントランスを出ると、目の前には赤い外国製の車が止まっていて。
俺が姿を現すと同時に窓が開く。
「やぁ、柊。おはよう」
爽やかに挨拶をくれたその人に頭を下げ、回り込んで助手席に乗り込んだ。
「わざわざ迎えに来てもらってすみません」
「いや、俺がどうしても来たかったからいいんだよ。なにせ、数多の君を慕う男たちの中で、自宅まで迎えに来られるのは僕だけだからね」
そう言って、嬉しそうに笑った伊織さんには、曖昧に笑顔を返しておく。
その視線が、チラリと首を覆うチョーカーを掠めて。
一瞬だけ眉が悲しそうに下がったことには、気が付かない振りをした。
「さてと。どこへ行こうか?」
「私は、どこでも…伊織さんにお任せします」
「そう?じゃあ僕の大好きなところでいい?」
「はい」
小さく頷くと、伊織さんは楽しそうに鼻唄を歌いながら車を出した。
てっきりホテルに行くんだと思ってたのに。
伊織さんが連れてきたのは動物園だった。
「ここ…が、大好きなところ、ですか…?」
「そう。意外?」
「…はい」
「だよね」
ふふふ…って、まるで秘密をこっそり囁くように笑う。
「母方の実家がこの近くでね。父が選挙のときはいつも預けられて、ここに散歩代わりに連れてこられたんだ。いわば、庭みたいなものだ」
「そう、なんですか…」
「だから、僕の幼い頃の楽しい思い出がたくさん詰め込まれた場所に、君との思い出を新たに加えたかった」
そうして、熱の籠ったまっすぐな眼差しで見つめられて。
思わず、目を逸らした。
「柊」
伸びてきた手が、頬に触れる。
「僕を見て」
そう促され、おずおずと視線を戻すと。
熱いけれど、でもとても優しい瞳が俺を包み込むように見つめていた。
とくん、と。
胸が疼く。
「…行こうか」
頬に添えられた手が、するりと降りて。
俺の手をそっと握る。
「…はい」
気が付いたら、自分からその手に指を絡めていた。
ともだちにシェアしよう!