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翡翠(かわせみ)34 side楓

触れた腕に 腰に 唇に あの人の感触が残っている それはとてもあたたかくて 泣きそうなくらいに優しい温度 思わずすがりついてしまいたくなるほどに …手を…取ってもいいんだろうか…? こんな穢れた俺が あんな綺麗な人の手を 取ってはいけない わかってる わかってる、けど… もう誤魔化せないかもしれない 俺は確かに あの人に惹かれている……… 「…はぁ」 音に雑念が混じりすぎていて。 溜め息とともに、鍵盤から手を離した。 「柊さん、ご指名です。一番テーブルですけど…行きますか?」 その時、まるでタイミングを見計らったように、声が掛かって。 顔を上げ、指定されたテーブルへ視線を向けると、よく見知った客が座ってるのが見えた。 「…今、行く」 俺はどこかホッとしながらも、ピアノを離れてカウンターへ向かう。 「え?今日は、もうピアノは弾かないんですか?まだ、開店して15分ですけど…」 カウンターの向こうで、隆志がカクテルを作るのを楽しそうに眺めていた志摩が、びっくりした顔で訊ねた。 普段の俺は、最低でも1時間はテーブルに付かないから。 常連客もそれがわかってるから、開店してすぐに来ることはないんだけど、珍しいこともあるものだ。 「あー、うん」 「具合でも、悪いですか?」 「そんなんじゃないよ。隆志、有線に切り替えといて」 「わかりました」 隆志は頷いて、店内の音楽を有線のクラシックチャンネルに切り替えると。 俺の前にグラスに少しだけ注いだウイスキーを出した。 これで、少し気を静めろってことかな? そんなに音が乱れてたか… 「…ありがと」 ありがた迷惑な気遣いに苦笑いを返しつつ、それを一気に煽って。 喉を滑り落ちていく熱さに反比例して、頭が冷えるのを感じながら、奥のテーブルへと向かった。 「いらっしゃいませ、醍醐様。今宵はようこそお越しくださいました」 いつものように笑みを貼り付けて、膝を折って挨拶をすると。 最近よく通うようになった男が、すぅっと目を細めた。 「やぁ、柊。今日も美人だな」 「美人って…それ、男の褒め言葉じゃないですけどね」 「うん。でも、それ以外に君を表現する言葉がないからね」 その言葉には返事の代わりに肩を竦めて、俺は彼の隣に腰を下ろす。 醍醐亮一(だいごりょういち) 父親は大きな病院をいくつも経営する事業家で、本人はアメリカの大学の医学部を飛び級で卒業し、この春から父親が経営する病院の外科で働いているという。 壮年くらいの客層が多いこの店では珍しく、俺と同じ年頃の男性で。 だからなのか、妙に話が合って、最近ではすっかり馴染みになった客だ。 「今日は、いかがなさいますか?」 「いつものシャンパン…って言いたいとこだけど、今日は連れがいてね。そいつの嗜好も聞かないとなぁ」 「連れ?」 「うん。なんか、こういうとこ初めてらしくって、着いた早々に緊張でトイレに駆け込んでたよ。良いとこのボンボンなのに、可愛いやつ。…あ、きたきた」 「ごめん、亮一!なんか俺、一人でテンパっちゃってて」 首を傾げた瞬間、耳に飛び込んで来た声に。 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が、走った。 この声… ………まさか……… 「おまえ~、今日は珍しく、この店のナンバーワンを一番に指名出来たんだからな。情けないとこ、見せるなよ」 「だから、ごめんって!すみません、俺、こういうとこ初めて…で……」 耳元で煩く鳴り響く鼓動の音を聴きながら、恐る恐る振り返ると。 「……え…?………楓………?」 そこには、懐かしくて。 でも二度と会いたくなかった人が、いた。

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