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小夜啼鳥(ナイチンゲール)8 side楓

「で?俺は、なにをすればいい?あいつ、出禁にしようか?」 真剣な表情でそう言った那智さんに、俺は首を横に振った。 「理由もないのに、そんなこと出来ないでしょ。それに、たぶん…もう来ないと思う」 俺は春くんを酷く傷付けた きっと こんな俺に春くんは幻滅しただろうから 「…そうかな?」 那智さんは、訝しげに眉をひそめる。 「うん」 「…俺には、そうは思えないけど」 「でも…もしも、九条からなにか言ってくることがあったら…俺をすぐに解雇して欲しい」 「はぁっ!?」 ひそめられていた眉が、今度は吊り上がった。 「なに言ってんだよ、バカ!んなこと、するわけねぇだろっ!」 「もう、九条では忘れられた存在かもしれないけど…俺がこの店で働いていることを今の龍が知ったら、どう動くのか全くわからない。みんなに迷惑かけたくないんだ。この店も、この店で働いてるみんなも、とても大切だから。だから…」 「そんな心配、おまえがする必要ねぇよ」 俺の言葉を遮って。 那智さんが力強く言う。 同時に、逞しい腕にもう一度抱き締められて、子どもをあやすようにポンポンと頭を軽く叩かれた。 「ここは、俺の店だ。俺はここで働くヤツらを家族だと思ってるし、家族を守るのは俺の役目だ。おまえは頼りになる長男だからな。笑ってここを出て行くまで、絶対に離すかよ」 「でもっ…」 「心配いらねぇって。天下の九条だろうが、夜の世界に手は出させねぇよ。ここは、俺の縄張りだ。おまえは余計なこと考えずに、俺に守られてればいいんだ」 安心させるように、何度も背中をポンポンされて。 「…ありがと…」 目の奥が、つんと熱くなった。 店を出て、車に乗り込むと。 まるでタイミングを見計らったようにスマホが震えた。 表示には、伊織さんの名前。 出ようか出るまいか、散々迷って。 それでも、震える指は応答の方をタップしていた。 「…はい」 『柊?仕事、終わった?』 聞こえてきた優しい声に、あの人の香りが鼻の奥で薫ったような気がして。 無意識に強張っていた身体が、緩むのを感じる。 「…はい」 『じゃあ、今から会えないかな?迎えに行くよ』 優しい誘い文句に、心が揺れる。 でも。 「…ごめんなさい。今日は、少し疲れてて…」 本当は会いたい 会って抱き締めて欲しい あなたの優しい香りで包み込んで欲しい でもそれは許されない 今の俺は、柊ではないから 『そっか、残念』 落ち込んだような声音に、ちくんと胸が痛む。 『昼間も連れ回しちゃったしね…ごめん』 「いえ、そんなことはっ…その…とても楽しかったですし…」 だから、言ってはいけないことを、つい口走ってしまった。 『本当に?』 「…はい」 『それなら、よかった。…ああ、そうだ。来月の君のヒートに合わせて、僕も休暇を取ることにしたから』 「えっ…」 『今度はとことん、付き合ってあげるから。安心しておいで』 「ダメです、そんなのっ…お忙しいのにっ」 『大丈夫。それくらいの調整、君のためならどうにでもなる。それとも、僕じゃ役不足かな?』 急に艷めいた声で、聞かれて。 この間のヒートの後の、身も心も満たされた感覚がふわりと身体を覆う。 「…いえ…そんなことは…」 『だったら、僕に任せて。いいね?』 強く押し切るようなセリフに、拒否なんて出来るわけなくて。 だってこんなにも 俺はあなたの香りを求めてる 「…はい。すみません」 『謝らないの。そこは、ありがとう、でしょ?』 「ありがとう、ございます」 『よろしい。じゃあ、今日はゆっくり休んで。おやすみ』 「おやすみなさい」 ぷつりと通話が切れた瞬間。 涙が一粒零れ落ちた。 それがなんの涙なのか…俺にはよくわからなかった。

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