157 / 566

小夜啼鳥(ナイチンゲール)9 side楓

3日後。 「柊…あいつが、きた」 いつものように開店してしばらくピアノを弾いていると、那智さんの声が耳元で響いた。 「え…?ホントに…?」 思わず手を止め、振り向くと。 強張った表情の那智さんが、鋭い眼光で俺を見つめている。 「追い出すか?」 「そんなことしないで。通していいよ。俺、テーブルに着くから」 「大丈夫なのか?」 「うん」 「…なんかあったら、すぐに合図しろ。俺もフロアにいるから」 顔に似合わず心配性なオーナーに、出来る限りの笑みを向けて。 俺はもう一度、鍵盤に指を乗せた。 那智さんの気配が遠ざかっていき、しばらくして入り口のドアが開く音が聞こえてくる。 音が乱れないように全神経を指先に集中して、さっき途中で止めてしまった曲を最初から弾き直していると、誰かの気配が近付いてきて。 一瞬だけ、ピアノの側で止まったけれど、すぐに店の奥へと離れていった。 俺はこっそり息を吐き、ピアノを引き続ける。 その間、誰も俺を止める人はいなかった。 ゆらゆらと、大海原にぽつんと取り残された小舟のように揺れる心を、ピアノに集中することでなんとか落ち着けて。 曲が終わると、静かに蓋を閉め立ち上がる。 目を閉じ、大きく深呼吸をして。 フロアの一番奥の席へと目を向けると、そこには良く見知った色素の薄い、さらさらの髪が見えた。 すくみそうになる足をなんとか動かして、そちらへと向かう。 フロアの空気が、ほんの少しだけざわりと揺らめいた。 「…いらっしゃいませ、藤沢様」 震えそうになる声を、必死に抑えていつもの「柊」を演じる。 太ももに肘をつき、俯いていた春くんは、俺の声にゆっくりと顔を上げ。 ふんわりと、温かい春風のような笑みを浮かべる。 あの頃と なにも変わらない微笑みを 「こんばんは、柊さん。お言葉に甘えて、また来てしまいました」 「この間は、本当に申し訳ありませんでした。あなたに失礼なことを…」 緊張で心臓が口から飛び出しそうなのを必死に隠しながら、不自然にならない程度の間を空けて春くんの隣に座ると。 ひどく神妙な顔で、頭を下げられた。 「え…?」 「初めて会った人を人違いするなんて、俺、ホント失礼な奴ですよね!あの日、家に帰ってから考えたら、なんてことしちゃったんだろうって、もう恥ずかしくて恥ずかしくて…こうやって、会いに来るのも恥ずかしかったんですけど、でも顔を見てちゃんと謝りたかったから…本当にすみません」 本気で困った顔で、これ以上ないってくらい眉を下げて。 膝につくんじゃないかってくらい、また頭を下げる。 「いえ…」 俺はひどく困惑して。 なにを言っていいのか、わからなくなってしまい、そう呟くのが精一杯だった。 春くん… 知らない人の振り、してくれるの…? 「…怒ってますか?」 俺のその反応を勘違いしたのか、頭を下げたまま、俺の機嫌を伺うように、上目遣いで見つめてくる。 「あ、いえ、怒ってないです」 「…ホントに?」 「ええ、ほんとに」 「よかったぁ!」 その瞬間、ぱあっと霧が晴れたみたいに春くんが本当に嬉しそうに笑って。 その屈託のない笑顔に、胸の奥がぎゅっと掴まれたように締め付けられた。 怒ってるのは、春くんじゃないの…? あんな風に君を突き放して 純粋に俺のことを思ってくれていた君の気持ちを 踏みにじった俺のこと 怒ってないの…? 優しい微笑みを湛えたまま俺を見ている春くんを、呆然と見返していると。 また困ったように眉を下げ、ゆっくりと俺へと手を伸ばしてくる。 でも、その手が俺の頬に触れる直前で、ピタッと動きを止め。 きゅっと唇を弾き結ぶと、俺に触れることなく、手を引っ込めた。 「…今日来たのは、それだけです。俺のこと、許してくれてありがとう」 そうして、ふっと息を吐き。 もう一度頭を下げて、立ち上がろうとした彼のジャケットの裾を。 気が付いたら、引き留めるように掴んでいた。 「…柊さん…?」 「…せっかくいらしたんですから…もう少しゆっくりしていかれませんか?」

ともだちにシェアしよう!