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小夜啼鳥(ナイチンゲール)9 side楓
3日後。
「柊…あいつが、きた」
いつものように開店してしばらくピアノを弾いていると、那智さんの声が耳元で響いた。
「え…?ホントに…?」
思わず手を止め、振り向くと。
強張った表情の那智さんが、鋭い眼光で俺を見つめている。
「追い出すか?」
「そんなことしないで。通していいよ。俺、テーブルに着くから」
「大丈夫なのか?」
「うん」
「…なんかあったら、すぐに合図しろ。俺もフロアにいるから」
顔に似合わず心配性なオーナーに、出来る限りの笑みを向けて。
俺はもう一度、鍵盤に指を乗せた。
那智さんの気配が遠ざかっていき、しばらくして入り口のドアが開く音が聞こえてくる。
音が乱れないように全神経を指先に集中して、さっき途中で止めてしまった曲を最初から弾き直していると、誰かの気配が近付いてきて。
一瞬だけ、ピアノの側で止まったけれど、すぐに店の奥へと離れていった。
俺はこっそり息を吐き、ピアノを引き続ける。
その間、誰も俺を止める人はいなかった。
ゆらゆらと、大海原にぽつんと取り残された小舟のように揺れる心を、ピアノに集中することでなんとか落ち着けて。
曲が終わると、静かに蓋を閉め立ち上がる。
目を閉じ、大きく深呼吸をして。
フロアの一番奥の席へと目を向けると、そこには良く見知った色素の薄い、さらさらの髪が見えた。
すくみそうになる足をなんとか動かして、そちらへと向かう。
フロアの空気が、ほんの少しだけざわりと揺らめいた。
「…いらっしゃいませ、藤沢様」
震えそうになる声を、必死に抑えていつもの「柊」を演じる。
太ももに肘をつき、俯いていた春くんは、俺の声にゆっくりと顔を上げ。
ふんわりと、温かい春風のような笑みを浮かべる。
あの頃と
なにも変わらない微笑みを
「こんばんは、柊さん。お言葉に甘えて、また来てしまいました」
「この間は、本当に申し訳ありませんでした。あなたに失礼なことを…」
緊張で心臓が口から飛び出しそうなのを必死に隠しながら、不自然にならない程度の間を空けて春くんの隣に座ると。
ひどく神妙な顔で、頭を下げられた。
「え…?」
「初めて会った人を人違いするなんて、俺、ホント失礼な奴ですよね!あの日、家に帰ってから考えたら、なんてことしちゃったんだろうって、もう恥ずかしくて恥ずかしくて…こうやって、会いに来るのも恥ずかしかったんですけど、でも顔を見てちゃんと謝りたかったから…本当にすみません」
本気で困った顔で、これ以上ないってくらい眉を下げて。
膝につくんじゃないかってくらい、また頭を下げる。
「いえ…」
俺はひどく困惑して。
なにを言っていいのか、わからなくなってしまい、そう呟くのが精一杯だった。
春くん…
知らない人の振り、してくれるの…?
「…怒ってますか?」
俺のその反応を勘違いしたのか、頭を下げたまま、俺の機嫌を伺うように、上目遣いで見つめてくる。
「あ、いえ、怒ってないです」
「…ホントに?」
「ええ、ほんとに」
「よかったぁ!」
その瞬間、ぱあっと霧が晴れたみたいに春くんが本当に嬉しそうに笑って。
その屈託のない笑顔に、胸の奥がぎゅっと掴まれたように締め付けられた。
怒ってるのは、春くんじゃないの…?
あんな風に君を突き放して
純粋に俺のことを思ってくれていた君の気持ちを
踏みにじった俺のこと
怒ってないの…?
優しい微笑みを湛えたまま俺を見ている春くんを、呆然と見返していると。
また困ったように眉を下げ、ゆっくりと俺へと手を伸ばしてくる。
でも、その手が俺の頬に触れる直前で、ピタッと動きを止め。
きゅっと唇を弾き結ぶと、俺に触れることなく、手を引っ込めた。
「…今日来たのは、それだけです。俺のこと、許してくれてありがとう」
そうして、ふっと息を吐き。
もう一度頭を下げて、立ち上がろうとした彼のジャケットの裾を。
気が付いたら、引き留めるように掴んでいた。
「…柊さん…?」
「…せっかくいらしたんですから…もう少しゆっくりしていかれませんか?」
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