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小夜啼鳥(ナイチンゲール)11 side楓
カウンターでビールを受け取り、一番奥のソファ席まで運んでくると。
春くんは、どこかをぼんやりと見つめていた。
視線の先を追うと、フロアの中央に置かれたグランドピアノがある。
「お待たせいたしました。どうか、なさいましたか?」
声をかけると、弾かれたように俺を見てふわりと微笑み。
また、ピアノへと視線を向けた。
「ピアノ…お上手ですよね、柊さんは。さっきのは…黒い瞳、ですよね?ロシア民謡の」
「ええ」
「…俺の、大好きな曲です。昔…大好きな人が、俺がこの曲が好きだって言うと、よく弾いてくれて。その人が自分の為にこの曲を弾いてくれるたび、胸が熱くなって…幸せを感じていたことを、思い出しました…」
ピアノへと顔を向けたまま、ぽつりぽつりと話す彼の横顔は、どこか幸せそうで。
胸の奥にしまいこんでいたはずの古い傷痕が、微かな痛みを訴える。
春くんのことを考えていたわけじゃないのに
春くんが好きだった曲を選んで弾いていたなんて…
「…藤沢様は、ヒート抑制剤の研究をなさってるっておっしゃってましたよね?」
彼の言葉に、なんと返したらいいのかわからなくなって。
俺は彼の隣に座り、押し付けるようにビールを手渡すと。
無理やり、話題を変えた。
「ええ、そうですよ」
そんな俺に嫌な顔ひとつせずに、春くんはビールを一口飲んで、微笑む。
「それは…全てのΩに効く薬…なんでしょうか?」
だけど、次の俺の質問に少し顔が強張った。
「そう…ですね…いずれはそういう薬が出来たら…と思うんですけど、なかなか…」
ふぅ、と息を吐き出して、またビールを口に運び。
苦々しいものを飲み下すような表情で、喉を鳴らす。
「今、市場に出回っている抑制剤は、効果の差はあれど女性のΩなら殆どの人に効くこと、柊さんはご存知ですか?」
「いえ…初めて聞きました。そうなんですか?」
「はい。でも、男性Ωには、その効果はマチマチなんです。そもそも、全人口の数%とも言われているΩの、その多くが女性です。なので、研究対象も自ずと女性Ωになるわけで…今、自分達が開発している薬は、男性Ωにも効果のある抑制剤なんですが、男性Ωの人口自体が極端に少ないので、臨床実験が進まなくて…なかなか、思うような結果を出せないでいるんです」
「…なるほど」
「最近では、ヒートは男性Ωの方が重いことが多いという研究結果が出ています。だから、男性Ω用の抑制剤を作ることは、製薬会社の使命みたいなものだと思うんですけどね」
そう言って。
春くんはまた、深い溜め息を吐いた。
確かに
店で働く子のなかには志摩のように抑制剤が効く子もいるが
俺のように抑制剤が効かない人間もいる
抑制剤の効かないΩは
珍獣を見るような好奇の目と
汚物を見るような侮蔑の目に晒され
社会から弾きだされて
否が応でもこういう場所で働かざるをえなくなる
全てのΩに効く薬さえあれば
俺たちはちゃんとした人間として生きられるのに
「…ここの従業員は、みんな男性Ωなんですよね?」
「ええ」
「…誰か、臨床試験に協力してくれる人がいたら、もう少し研究も早く進むのになぁ…」
ぐるりとフロアを見渡して。
ぽつんと独り言のように呟いた言葉が。
俺の心にざわりと波風を立てる
「…臨床、試験…」
思わず、その言葉を反芻すると。
「あ!えっと!そ、そういう意味じゃなくって!」
春くんはハッと我に返ったように、慌てて頭を横に振った。
「すみませんっ!あの、今言ったことは気にしないでくださいっ!あのっ、そのっ…あなた達を、実験の道具みたいに考えてるわけじゃなくってっ…えっと、だから…あーもうっ!俺、ほんと、バカっ…」
春くんは青ざめたまま、早口で捲し立てると。
「すみませんっ!俺、やっぱ帰りますっ!」
慌てて立ち上がろうとするから、今度は手を掴んでまた引き留める。
「っ…柊、さん…?」
「大丈夫です。私は、気にしてませんから」
「で、でもっ…」
「人間以下の獣として、見られることには慣れてます。藤沢様がそういう方じゃないということは、よくわかってますから」
宥めるように、微笑んでみせると。
春くんは泣きそうな顔で、唇を強く噛んだ。
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