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小夜啼鳥(ナイチンゲール)15 side春海

その瞬間。 βの俺でも関知できるほどの、濃厚な花の香りが波紋のように広がった。 小さな叫び声をあげてその場に踞った男の子に駆け寄った楓から、その香りが発せられたんだとわかったのは。 楓が苦しげに身を捩りながら、その子を守るように覆い被さったのと同時に、目の端にさっきまで紳士然としていた数人の客が、血走った獣のような目で楓に向かって寄ってきているのが写ったときだった。 「いやぁっっ…!」 振り向いた楓の顔が、恐怖に歪んだ。 「楓っ!」 咄嗟に、男たちと楓の間に身体を滑り込ませ、楓を腕のなかに抱き込んだ。 「どけっ!」 ものすごい力で、髪の毛を引っ張られた。 「βのくせにっ!邪魔するなっ!」 いくつもの手が、ものすごい力で腕を掴み。 俺を楓から引き離そうとする。 力で、βの俺がαに敵うわけがない。 それでも、手を離すわけにはいかなかった。 「やっ…やだっ…やめてっ…」 俺の腕のなかでガクガクと震える楓を こんな奴らに渡すわけにはいかない だけど。 「そのΩを、寄越せっ!」 右頬に、鋭い痛みが走って。 衝撃でぐらりと世界が揺れて、腕の力が緩んでしまった。 「いやぁぁっ…!」 数本の腕が、俺の下から楓を引っ張り出す。 「やめろっ…!!」 「やぁぁっ…」 「藤沢さまっ!」 咄嗟に、楓の肩にかかった一本の腕を掴んだとき。 オーナーの叫び声とともに、足元に注射器が転がってきたのが見えた。 α用の緊急抑制剤…! 考えてる暇なんかなかった。 俺はその注射器を急いで拾い、針のキャップを歯でむしりとると。 掴んでいたαの男の腕に、突き立てた。 「うっ…」 指に力を入れて、中に入ってる透明な液体をそいつの体内に流し込む。 「うぅっ…」 即効性の薬だったようで、男の手はすぐに楓から離れて。 なにかに取り憑かれたように血走っていた瞳に、正気の光が戻ってくるのが見えた。 急いで楓をもう一度腕のなかに抱き込みながら、他の奴らを見渡すと、残りの二人もオーナーに抑制剤を打たれたようで、呆然とした顔でその場に座り込んでいる。 「…ゃ…ぁっ…ぁ…」 ほっと息を吐くと、腕の中の楓がガクガクと震えているのに気付いた。 「楓っ!?」 「やだっ…いやだっ…ぁ…あぁっ…」 苦しげに身悶えながら、縋るように俺の腕にしがみついてくる。 辺りに立ち込めるのは 噎せ返るほどの甘い香り 「あ、ぁ、ぁっ…」 「オーナーっ!こっちにも抑制剤をっ!」 その身体を強く引き寄せながら、最初にヒートを起こした男の子に薬を飲ませていたオーナーに叫ぶと。 彼は険しい顔で首を横に振った。 「柊には、抑制剤は効かないんだ」 「えっ…」 「…あんた、柊を階段下の俺の部屋に連れてってくれ。そいつをここに置いておいたら、他のやつも連鎖的にヒートを起こしちまう」 そう言って、押し付けるように俺に鍵を渡してきた。 「…いいんですか?」 「仕方ないだろ。俺はこの場を収めなきゃならない。…柊を、頼む。早くっ!」

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