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小夜啼鳥(ナイチンゲール)29 side春海

「ごめんね…知らない人の振りなんかして」 俺の隣に座り、湯気の立ったココアにふーふーと何度か息を吹き掛けて一口飲むと。 楓はポツンと切り出した。 「でも…あの店にはいろんなお客さんが来るからさ。万が一、俺が九条の関係者だってバレて、それのせいであの家に不利益をもたらすことがあっちゃいけないから。俺みたいなのが、龍や九条のお父さんに迷惑かけちゃいけないからね」 自分を卑下する言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。 「ううん…大丈夫。気にしてないよ」 だけど、俺はそんな陳腐な言葉しか言えなくて。 そんな自分に軽く失望していると、楓は慰めるように薄く笑った。 「…ずっと、この仕事してるの?家を出てから、ずっと?」 恐る恐る訊ねると、楓は、ふ、と小さく息を吐いて、また一口ココアを飲む。 「なにも持ってないΩが生きていく手段なんて、他にはないよ」 とても、静かな声だった。 苦しみも悲しみもなにもない、ただ全てを諦めたような、淡々とした声だった。 そのまま、重苦しい沈黙が落ちる。 楓は、膝の上でカップを両手で包み込んだまま、虚空へと視線を投げていた。 過去のことを思い出してるんだろうかと思うけれど、その横顔からはなんの感情も読み取れなくて。 なんと声をかけたらいいのか、わからなくて。 俺はただ、記憶の中よりずっと大人びた、彫刻のような端正な横顔を見つめ続けることしか出来なかった。 どれくらい、そうしていただろうか。 喉の乾きを覚え、手の中のすっかり冷たくなったココアを喉に流し込もうとした時。 楓はまた、小さく息を吐いて。 ゆっくりと顔を動かして、俺を正面から見た。 「でも、そろそろ潮時かもなぁって思ってるんだ」 「え?」 それがどういう意味なのか、すぐには理解できなくて。 思わず聞き返してしまうと、楓は肩を竦めて、ココアを一気に飲み干す。 「俺ももう、いい年だし。あの店のナンバーワンなんて持て囃されたって、所詮は男娼だしね。春くんだって、どうせ抱くなら若い子の方がいいでしょ?」 その言葉には、自嘲する響きがふんだんに含まれていて。 「そんなことっ…俺は、楓がいい!楓じゃなきゃ、やだよっ!」 つい、本音を口にしてしまうと。 楓は驚いたように目を丸くした。 「あ、えっと…そうじゃなくてっ…それは、そのっ…」 勢い余って、まずいことを言ってしまったと、焦って言い訳しようとしていたら。 「春くんてさぁ…もしかして、まだ俺のこと好き?」 その瞳に、光が宿る。 妖艶で淫靡な、男を誘う色。 ぞくりと、全身が粟立った。 「俺が、欲しい?」 突然纏った、娼婦のオーラに。 戸惑いながらも、引き寄せられてしまう。 「そ、それは…」 「だったらさ」 すっ、と楓が顔を近づけてきて。 耳に、艶やかな唇が触れた。 「俺を、飼ってくれない?」

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